ひとり言 <映画の中のえん罪事件> NO.4
第8回ヒッチコック監督シリーズ第3弾は、『 白い恐怖 』(1945)という映画を取り上げたいと思います。原作は、フランシス・ビーディングの『 ドクター・エドワーズの家 』という小説ですが、例によって、アイデアをちょっと拝借したという程度らしいんですが・・・ 。主演には、グレゴリー・ペックとイングリッド・バーグマンのふたりを起用し、どちらかと言うとラブロマンス的色彩が濃い作品になっています。この映画の原題は "SPELLBOUND"となっていて、これには「呪文(じゅもん)で縛(しば)られた」という意味もありますが、ここでは「 過去の<罪悪感>に縛(しば)られた 」状態を意味しているようです。
この映画では、ヒッチコックが何を思ったのか<精神分析>を映画の中に取り入れたために、これまでの作品とは異質なものになっています。新しい試みには違いありませんが、映画と精神分析はその性質上互いに相容れないものがあります。何故ヒッチコックは、敢(あ)えてこのような映画を作ったのでしょうか。以前からヒッチコックはフロイト(1856〜1939)の<精神分析>や<夢判断>に強い関心を持っていたらしいのですが、もしかしたらこの映画の制作された年( 第二次世界大戦中 )も無関係ではないのかもしれません。只この映画自体には、ほとんど戦争臭さはありません。わずかに、記憶喪失の医師ジョン・バランタイン(グレゴリー・ペック)がローマ上空で敵機に撃墜(?)され、手に火傷(やけど)を負ったという挿話(そうわ)があるだけです。
その辺の経緯(いきさつ)を調べてみると、この映画制作のきっかけは、フロイトの夢理論を下敷きにしたロマンティックスリラーの企画が、プロデューサーのD・セルズニックの所に持ち込まれ ― 彼自身が精神分析を受けていた事もあって ― 彼の気を引いた、というだけのようです。(『 アート・オブ・ヒッチコック 』【D・スポトー著/関冬美訳/キネマ旬報社刊】)
映画の舞台は、"グリーン・マナーズ"という名の精神病院で、近く退職するマーチソン院長の後任として、エドワーズ博士が赴任(ふにん)して来たところからこの物語は始まります。この病院には精神分析医のコンスタンス・ピーターソン博士(イングリッド・バーグマン)がいて、患者の治療に当たっていました。彼女はとても美人だが、仕事に専念する余りどこか男を寄せ付けないような堅い雰囲気(ふんいき)を持っていました。ところが、エドワーズ博士 ― 実は記憶を喪失したジョンが彼に成り済ましていた ― と初めて顔を会わせた時から彼女に何らかの変化が起き、二人は互いに惹(ひ)かれ合うようになります。
彼女は、初めその変化が何なのか分かりませんでしたが、<楡(にれ)の森>でのデートをした夜、眠れずに図書室にエドワーズ博士の書いた本を探しに行き、院長室のドアの隙間(すきま)から洩(も)れる灯りに心をときめかせる自分を発見するでした。帰り際(ぎわ)に思わず院長室のドアを開け、うたた寝をしているジョンの姿に見とれるコンスタンス。<ラブシーン>の時にドアが次々に開かれて行く映像があるのですが、あれはいったい何を意味しているのでしょうか・・・? 恐らく、コンスタンスの堅く閉ざされていた心 ― 長い間抑圧されてきた女性らしい感情 ― が解き放されたという事のイメージ投影なのでしょう。
しかし、エドワーズ博士(ジョン)の様子には、どこか不可解なところがありました。コンスタンスの着ていたガウンの縞模様(しまもよう)を目にしてめまいを起こしたり、自殺を図ったガームズの手術を見ておかしな事を口走ったりするジョン。そして、遂(つい)にはショックの余り気を失ってしまいます。コンスタンスは、著書にあった博士のサインと手紙のサインの筆跡が異なるので、エドワーズ博士がニセ者であることに気付きます。
目を覚ましたジョンに「 あなたは誰なの?」と問い詰めるコンスタンス。自分がエドワーズ博士を殺して、彼に成り済ましているものと思い込んでいるジョン。しかし、記憶を喪失(そうしつ)していて、本当は自分が誰なのかすら分からないのでした。ジョンは、コンスタンスに迷惑を掛けまいと、置き手紙をして病院を立ち去ります。
翌朝、エドワーズ博士の秘書と警官が行方不明の博士を捜しにやって来て、病院の中は大騒動になります。ジョンの事が心配になり、後を追ってニューヨークのエンパイアステートホテルへ行くコンスタンス。彼女は、自分自身の為にもジョンの記憶喪失の治療をして真実を知りたいと切望します。しかし、容疑者の行方を知っている者として、新聞にコンスタンスの手配写真が載ってしまいます。そこから二人の<真実捜しの旅>が始まります。
二人は、ジョンの記憶をたどって事件現場へ行こうとするのですが、彼は頭が混乱していて何も思い出せないために、コンスタンスの恩師で精神医学者のブルロフ博士を訪ねます。ジョンの正体を知った博士は、警察に通報しようとするのですが、かつての教え子で助手だったコンスタンスの熱意にほだされ、ジョンの<精神分析>をすることになります。博士は、ジョンの断片的な<夢>を手掛かりにその意味している事実を探ろうとします。
余談になりますが、この当時は<心理学>や<精神分析>についての理解がまだ一般的ではなかったため、ヒッチコックもかなり苦労したようです。それは、この映画のセリフの随所(ずいしょ)でくどい位に<精神分析>の説明をしていることからも分かります。例えば、ブルロフ博士がジョンの<精神分析>をするシーンでは次のようなセリフがあります。「 夢は、自分が隠そうとしているものを教えてくれるのだが、それは断片的な形で現れるのだよ。その一つ一つの断片を組み立てて、正しい姿に戻すことによって何を意味しているかを探る必要がある。・・・ 」 現代人から見れば、ちょっと余計な説明です。
話を戻します。ブルロフ博士とコンスタンスは、ジョンの断片的な<夢>の内容とその時偶然降ってきた<雪>に対する彼の反応から、彼が恐怖を抱いているのが<雪とシュプール>だという結論に辿(たど)り着きます。そして、如何(いか)にもちょっと・・・、という感じで事件現場が<ガブリエルバレー>のスキー場だったということが分かります。
又々余談になりますが、この<夢>のシーンは、サルヴァドール・ダリのデザインによるものだそうです。「 大きな眼玉がいくつも描かれた壁、テーブルや椅子の脚はといえば女性の脚のデザインになっている、そんな部屋で主人公は女を抱きながら、大きなトランプで勝負をしているといったシュールレアリズムの幻想シーンがくりひろげられ 」(『 ヒッチコックを読む 』【ブックシネマテーク2/フィルムアート社刊】) ていて、ちょっと奇異な観さえあります。
さて、現場に向かうコンスタンスとジョン。スキーを担(かつ)いでゲレンデを登る二人・・・。この当時は、まだスキーウェアなんて着なかったんですねぇ! 思わず感動・・・?
そう言えば、日本でもついン十年前までは<はんてんウェア>と<下駄スキー>だったなあ、なんて変なことを思い出してしまいました。しかし、あの<スキーシーン>だけは何とかして欲しいなァ! ― 低予算だったのは分かるけど ― あんな格好 ― 斜面に対してほぼ垂直に立ったまま ― で直滑降は無理ですョ! ストックも手に持っているだけで、全然使ってないしィ〜・・・。
おっと、話がまた逸(そ)れてしまいました。ジョンは、頂上からコンスタンスと滑って来て、崖(がけ)の直前に差し掛かった所で記憶を取り戻します。自分がジョン・バランタインという名前の医師だったということ。戦争で負傷して軍隊を除隊したこと。飛行機墜落のショックで記憶喪失になり、その治療中にエドワーズ博士と知り合ったこと。彼の提唱するスポーツ療法のため二人でスキー場に来て、博士は<事故>で崖から落ちたこと。子供の頃の弟の事故死を自分の責任だと感じていたため、その<罪悪感>から自分が博士を殺したと思い込んでしまったこと・・・。
だが、崖の下から見つかった博士の死体には、背中を銃で撃たれた跡がありました。殺人の容疑者として逮捕されてしまうジョン。失意のコンスタンスは、復職したマーチソン院長に慰められるのですが、院長がふと洩らした言葉から彼に不審を抱きます。そして、ジョンの<夢>の分析を院長ともう一度やり直し、<真犯人>が実は院長だったことを突き止めます。真相は、院長が自分の地位を守る為に、後任として着任が決まっていたエドワーズ博士をスキー場で待ち伏せして殺害したのでした。
― 余談ですが、この映画のストーリーからは、マーチソン院長がエドワーズ博士を殺害した<動機>が、今ひとつ理解できません。これは、あくまでも私の個人的意見ですが、まず、この映画の舞台がアメリカだということを念頭に置いて下さい。その上で、マーチソン院長が実質的な経営者ではなく、<理事会>から任期2年ないし3年の契約で雇われた院長だったと想定してみると、ずっと分かり易くなります。
<理事会>は病院の経営刷新のために<精神分析>の分野で高名なエドワーズ博士を次期院長とすることに決定、マーチソン院長に対し、来期は契約更新しないことを通告 ― 実質的な解雇通告 ― します。そこで彼は、自分の地位を脅(おびや)かしているエドワーズ博士を殺害すれば解雇されずに済む、と考えたのではないのでしょうか ・・・ ?
さて、秘密を知られた院長は、コンスタンスに拳銃を向けますが、結局逃げ切れないと悟り自殺してしまいます。
― この銃を向けるシーンには、逸話(いつわ)が残っています。院長の構える拳銃を映像に捉(とら)えたままで、その背後にいるコンスタンスに如何(いか)にピントを合わせるかということで非常に苦労したようです。現代ならば、差詰(さしづ)め<コンピュータ・グラフィックス>を使うところでしょうが、この時は拳銃を持った巨大な<木製の手>を作り、それをカメラの下に固定して撮影したそうです。
ところで、マーチソン院長が<真犯人>だという視点で、この映画の中での彼の表情の変化を見てみると、とても興味深いものがあります。まず、エドワーズ博士(ジョン)が着任した時の院長室での対面シーンでは、院長の顔に一瞬ですが、戸惑いと驚きの表情が浮かんですぐに消えます。 ― この時点では、別人のエドワーズ博士の登場に対する驚きの方が勝っていると思います。 そして、ガームズの手術シーンで混乱状態に陥ったジョンを見詰める院長の冷たい眼差。 ― ここでは、エドワーズ博士の正体を見極めようとしているかのようです。 その後、本物のエドワーズ博士の秘書と警官が病院にやって来て、ジョンに犯罪の嫌疑が掛かった後の余裕を見せる院長の安堵の表情。このような表情の変化にも、後になって考えてみるとそれぞれに深い意味があったのが分かります。
実は、「 マーチソン院長が ― 弟の事故死の記憶を葬り去った ― ジョンをエドワーズ博士殺害の道具として利用した 」とする説(『 アート・オブ・ヒッチコック 』)もあるのですが、ちょっと穿(うが)ち過ぎのような気がします。人間を道具として利用するのは、余りにも<不確定要素>が多過ぎるのではないのでしょうか・・・?
ところで、例の<でぶっちょ男>はどうしたんでしょう? 正直言って、この映画を3回見ましたが分かりません。 ― もう、降参ッ! ― 実は、ホテルでコンスタンスがエレベーターに乗ろうとした時に、バイオリンケースを持って降りた男が良く似ていたのですが、ちょっとスマート過ぎます。戦時中なので、さては<ダイエット>したのかな(?)と一瞬思ったのですが、先程挙げた本にバーグマンとペックの二人と談笑するヒッチコックの写真が載っていて、やはり<小錦の親戚>のような体型でした。この映画では、さすがに出演を辞退したのかな・・・?
※ この件については、その後偶然手にした書籍 ( 前掲『 ヒッチコックを読む 』) によって解決しました。やはりヒッチコックは、先程のエレベーターに乗っていましたが、バイオリンケースを持って降りた男ではなく、エレベーターのドアが開いた直後に葉巻を吸いながら最初に出て来て、右方向に去っていった男だったようです。
― 話は変わりますが、この映画を見て、ヒッチコック映画が、未だに多くのファンを魅了して止まない理由が分かったような気がします。勿論(もちろん)、50年以上も前に作られた映画ですから、内容的に稚拙(ちせつ)なところが有るのは否めませんが、それは別として、映画の構成が実に見事なのです。役者の一人一人の<セリフ>は言うに及ばず、何気ない<仕草>や<表情>にまでもそれぞれにキチンと計算された意味があるのです。( 先程挙げた院長の表情の変化もその一つ。) 言い換えれば、ウッカリすると見過ごしてしまうような<動作>の一つ一つにも、映画制作者からのメッセージが込められているのです。
幾つか例を挙げると・・・、この映画の冒頭で精神病患者のメアリーが看護人に言い寄ったあげく、彼の手の甲を爪で引っ掻いて二筋の線をつくってしまうという場面があるのですが、一説によると、その線はジョンの<恐怖の対象>が何であるかを暗示していて、その色情狂(?)の彼女はコンスタンスの抑圧された欲望(?)の表出したものだそうです。そして、その後のメアリーとピーターセン医師との会話を通して、この病院の患者が、過去の<トラウマ>による病的な<罪悪感>に悩まされているのが分かる(?)、・・・という寸法だそうです。
また、コンスタンスが患者のガームズ ― 彼は自分が父親を殺したと思い込んでいる ― に言った次のようなセリフの中に、事件の謎を解く鍵(かぎ)があります。つまり、「 人は時として単なる空想と現実とを混同して、やってもいないのに自分のやった事だと信じてしまい、それが大人になっても罪の意識として残る場合があります。」 ― この患者の苦悩は、またジョンの苦悩そのものでもあります。
このような伏線(ふくせん)が、映画の中の随所(ずいしょ)に見られるのです。「 貴方にはそれが分かりますか・・・?」という、ヒッチコックのニヒルな問い掛けが聞こえるようです。
ところで、この映画の話のように、実際にはやってもいない事を自分の仕業(しわざ)だと思い込んでしまうような場合があるかどうかは別として、一種の<思い込み>や<固定観念>によって真実を見失ったり、事実を歪曲(わいきょく)してしまったりする場合があるのではないでしょうか・・・?
<布川事件>の場合では、現場で目撃された<二人組の男>に余りにも囚(とら)われ過ぎた捜査官 ― 他に有力な情報がなかった ― 。目の前の人間を頭から犯人と思い込んで疑わない検察官 ― 良心的な検察官もいましたが ― 。そして<自白の内容>に拘(こだわ)り過ぎた裁判官 ― 警察の捜査に対する盲信と自身の判断能力の欠如 ― 。
その為に、現場の状況から本来見えるべき筈(はず)の<真犯人>の姿を見失ってしまったのではないでしょうか・・・? そして、それを埋め合わせる為に、桜井さんと杉山さんを主演にしたチグハグな<犯罪ストーリー>が出来上がってしまったような気がします。
( 2000.2 T.Mutou )