ひとり言 <映画の中のえん罪事件> NO.1
最近『 レッドコーナー・北京のふたり 』という映画のビデオを見ました。リチャード・ギア扮するビジネスマンのジャック・ムーアが、商談で北京に滞在中にナイトクラブでひとりの女性と知り合い、一夜を共にすることになるのですが、朝になってその女性が殺害されていたことから事件に巻き込まれてしまう、というようなよくあるストーリーで、この事件が中国政府高官の息子の陰謀によるものだったため、拘置所の中で悪徳警官に暴行を受けたり、現場検証の途中で暗殺されそうになったりするのは、いかにもハリウッド映画・・・? でも、意外とこれが事実だったりして・・・。
― この映画の中でリチャード・ギアが、暗殺未遂現場から逃走してアメリカ大使館に保護を求めて行くシーンがあるのですが、この辺はもう少し緊迫感を出して欲しかったような気がします。運動不足の中年男がヨタヨタ逃げ回るのは、ちょっと滑稽(こっけい)過ぎますよネ!
これも完全な<えん罪事件>なのですが、この映画の中で描かれている<中国の司法制度>には、 ― これが事実かどうかは分りませんが ― さすがは中国と思わせるものがあります。例えば、被疑者を取り調べる前に<処刑シーン>のビデオを見せたり、裁判で無罪を主張すると<死刑判決>を受け、一週間以内に<銃殺刑>になるので、罪状認否の時に弁護士自ら<有罪の申立>をしたりと、なんとも恐ろしい限りです。
この映画の中で、「罪を認めるものには慈悲を」「抵抗するものには厳罰を」という中国の司法制度における標語が出てくるのですが、これでは裁判が始まる前から<有罪>が決まっているようなものです。<布川事件>の桜井さんと杉山さんが、裁判で無罪を主張してきたために<改悛の情>がないとして仮釈放がなかなか認められなかった経緯(いきさつ)の根底には、これと同じものが有るように思われてなりません。
布川事件の一審判決の判決文を読んでみると、最初に判決が決まっていて、その結論に添って事実認定が行われたのではないかとの感じを受けます。そして、公判においての裁判長の被告人尋問でのやり取りからは、残念ながら本来法廷にいる筈(はず)の<裁判官>の姿が少しも見えて来ません。其処(そこ)には、ただ黒い法衣を着た<検察官>が居るだけです。これが日本の裁判の実態だとしたら、とても恐ろしい限りです。
― 図らずも、この映画の中で、バイ・リン扮する女弁護士が検事総長に対して、次のように言っています。
「この国の裁判は、いつも闇の中です。太陽のもとに、さらけ出すべきです。」
わが国でも、最近とみに司法改革が叫ばれています。そして、水面下では、すでにその動きが活発です。私は、その改革が真に<正義の実現>に寄与するものであることを願って止みません。
( 1999.9 T.Mutou )
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第2回また、映画の話で恐縮ですが、『 ショーシャンクの空に 』という映画を見直してみました。これで3度目ですが、最初に見たのは、桜井さんと杉山さんの仮釈放の直後だったため、刑務所の悲惨な生活にばかり目が行ってしまい、冷静に見ることはできませんでした。今回は、少しは違った角度から見られたのではないかと思います。
ご存じない方のために、簡単にストーリーを説明させて頂くと、若いけれどポートランドの大銀行の副頭取だったアンディー(ティム・ロビンス)が、妻とその愛人を殺害した罪 ― 勿論、無実です ― で終身刑になったところから話が始まります。全編が<調達屋>のレッド(モーガン・フリーマン)の目を通して語られているのですが、一見ひ弱で風変わりに見えるアンディーは、刑務所の中でシスターと呼ばれている連中に目を付けられ、度々暴行を受けるようになります。
しかし、それも刑務主任の<税金対策>をしてやったことから生活が一変。その年を境にアンディーに手出しをする者がいなくなり、仕事場もランドリーから図書室にまわされ、そこで所長や刑務官のために<税務申告>の代行をしたり、<投資>の相談を引受けたりするようになります。
またその一方で彼は、図書室の整備や受刑者に高校卒業の資格を取らせることに情熱を傾けるようになります。そして、銀行員だった時の知識を生かし、所長が収賄によって得た汚れた金の洗濯(マネー・ロンダリング)や、投資の助言をしたりするようになり、次第に所長にとっては非常に便利だが悪事の全容を知っている怖い存在になっていきます。
そんな折、「アンディーのえん罪事件の<真犯人>を知っている」という男がショーシャンク刑務所へ入所して来たことから、事態は急変します。所長は、<再審>を強く求めるアンディーを<懲罰房>に入れる一方で、その男を呼び出して謀殺してしまいます。
アンディーは、<懲罰房>から出た後でそのことを知り、自分の置かれている状況を理解します。そして、それまで永年に渡って自分の監房の壁に穿(うが)ってきた穴から脱獄し、ついに所長の悪事を暴くことに成功します。
以上があらすじですが、所長や刑務官の横暴や腐敗ぶりがあまりにも酷いだけに、アンディーが最後に所長に<一矢>を報いた時には、正直言ってやはり胸がスッとしました。そして、刑務所の中の暗いシーンが多かっただけに、仮釈放になったレッドがアンディーに再会した時のメキシコの海の鮮やかなオーシャンブルーが目に焼き付いて離れません。
この映画のメインテーマは、<えん罪事件>そのものではなく、実は人生の<不条理>にあるように思います。えん罪事件という残酷な不運に遭遇したアンディーは、いつも自分の中に<自由な世界>を持っていたので、脱獄までの27年間を泰然と過ごせたのでしょう。そして、最後の大逆転・・・。
この映画の原作は、スティーヴン・キングの『 刑務所のリタ・ヘイワース 』という小説です。その中の一節にとても気になる文章があるので、少し長くなりますが、引用させて下さい。裁判でアンディーに不利な証言をした店員についての推測です。そこで、アンディーがレッドに次のように言っています。
「かりにだね、検察側が証人の依頼をしている最中に、あの晩私にビールを売った男を見つけたとする。そのときには、3日もたっていた。事件の詳細はすでにどの新聞にもでかでかと報道されていた。たぶん、やつらはおおぜいであの男をとりかこんだろう。五、六人の警官、それに検事局からきた刑事、それに地方検事の助手。記憶ってのはずいぶん主観的なものだよ、レッド。連中は『ひょっとしたら、やつはふきんを4、5枚買ったんじゃないか?』と考えて、その線から店員を問いつめた。おおぜいの人間が何かを思い出すように催促すると、これはかなり強力な説得の武器になるからね」
「しかし、それ以上に強力なものがひとつある。すくなくともあの店員が自分でそう信じこんでしまったことはありうるね。理由はスポットライトだよ。記者にとりかこまれる、新聞には自分の写真が出る・・・・・もちろん、クライマックスは、法廷で主役をつとめたときだ。なにもあの男がわざと供述を曲げたとか、偽証をしたとかいってるんじゃない。かりに嘘発見機にかけられても、あの男は大手を振って合格したろうし、おふくろさんの名前にかけて、たしかにふきんを売ったと誓ったろうさ。しかし、それでもやはり・・・・・記憶ってのは、いまいましいほど、主観的なんだ。」【 新潮文庫刊『ゴールデンボーイ』浅倉久志訳 】より
このことは、<布川事件>の渡辺証人等の場合にも当てはまるような気がします。結局、<悪意の有無>とは関係なく、<証言>は作られていってしまうのではないでしょうか・・・?
( 1999.10 T.Mutou )
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主人公が、<えん罪事件>に巻き込まれてしまうという映画の中で有名なものに『 逃亡者 』という映画があります。この映画は、1960年代の同名の人気TVシリーズ(主演:デビッド・ジャンセン)を映画用にリメイクしたもので、40才代以上の人ならば、昔ハラハラ・ドキドキして見た記憶があるのではないかと思います。この映画の見どころは、やはり捕まりそうで捕まらない逃亡のスリルにあります。
― 余談ですが、このTVシリーズは、米国では1963年9月17日にABCネットに登場し、1967年8月27日に終了するまでの足かけ約4年間に渡って全米で驚異的な視聴率を記録しました。日本では1年遅れでスタートしています。
ストーリーは、新薬製造にからむ同僚医師の陰謀により、その新薬の副作用の危険性を指摘した小児科医のリチャード・キンブル(ハリソン・フォード)に対して暗殺者が送り込まれたことに始まります。リチャード本人の暗殺には失敗しましたが、その暗殺者によって妻を殺害されたため、たまたまその直後に帰宅したリチャードに殺人の嫌疑がかかってしまいます。そのために、リチャードは第1級殺人罪で死刑判決を受けますが、護送中に起きた事故をきっかけに脱走し、警察に追われる身となりながらも、真犯人探しの旅に出る、というものです。
余談ですが、この映画では主演のハリソン・フォードよりも仇敵のジェラード保安官補を演じたトミー・リー・ジョーンズの冷徹な追跡ぶりが話題となり、その年のアカデミー助演男優賞を取得しています。そして、この映画の続編とも言うべき『追跡者』という映画は、このジェラード保安官補を主役にして作られました。
話は戻りますが、この『 逃亡者 』という映画の中でリチャードが有罪とされた証拠には次のものがあります。
- 被害者(妻)の爪にリチャードの皮膚組織が付着していた。
- リチャードの首にひっかき傷があった。
- 凶器となったランプや拳銃・弾にリチャードの指紋があった。
- 被害者が死の直前にした911番通報でリチャードの名を呼んだ。
- 死亡推定時刻に犯行現場にいた。
- ドアの錠や警報装置に異常がなかった。
- リチャードが生命保険金の受取人になっていた。
どれをとってもリチャードには不利なものばかりです。そして、リチャードが真犯人だと主張している<片腕の男>に結びつくような証拠は何ひとつありません。しかし、現実には真犯人は存在したわけで、それを知る者は実際にその真犯人と格闘したリチャード本人だけというに過ぎないのです。
では、<布川事件>について考えてみたいと思います。この事件で桜井さんと杉山さんが有罪とされた証拠にはどんなものがあるのでしょうか? 実は、指紋はもとより、物的証拠とされるものは何ひとつ存在しないのです! ただ、取り調べの段階での二人の<自白>と、信用するに疑わしい<証言>だけなのです。その自白は、捜査官に強要されたものであり、また証言も、渡辺証人に至っては妄想としか言えない類のものなのです。
ここに裁判の難しさがあると思います。どんな不当な証拠でも、それが一旦証拠として採用され、有罪判決を受けてしまうとそれが事実になってしまうのです。そして、それを覆すのは非常に困難です。
私は、この『 逃亡者 』という映画の中での裁判シーンを見ていて感じたことは、「所詮裁判というのは、原告・被告の双方が裁判官ないし陪審員に対して自分の主張を如何に認めさせるかという、ディベートの場に過ぎないのではないか」という事です。そして、そこで決定された事は<真実>とは必ずしも一致しないのです。
判決は、所詮生身の人間が下すものであり、そこには間違いが生じ易いものであるという認識のもとに、その<救済手段>も万全であって然るべきなのではないでしょうか・・・。
※ 因(ちな)みにTV版の『 逃亡者 』の冒頭のナレーションは、次のようになっていました。
「 リチャード・キンブル、職業医師。目的地、州刑務所の死刑執行室。キンブルはその妻を殺害した罪に問われ死刑の宣告を受ける。しかし法律は神ならぬ人間の手により作られ、人間が執行する。恐るべき誤審はここに生じる。キンブルは無実である。だが彼は自分の容疑を晴らす事実を立証できなかった。妻の死体を発見する直前に片腕の男が走り去るのを見た。しかしその男はついに発見できなかった。彼はこの世の名残りに外をみつめながら自らの運命をじっと考えている。窓の外の自分の将来も暗黒だった。 ― しかし、その暗黒の中に運命のはかりしれぬ力があった。」
( 1999.11 T.Mutou )