From 桜井昌司詩抄
『 待 つ 』
冷え切った身体よりも
もっと冷たい寝床の中で
体温が布団に吸われ
体温が畳に届いて
やがて
自分自身を包みこむまで
待つ
じっと待つ。
自分の生命を
生命の温もりを
こんなにも感じられる冬は
苦しみが喜びだ
生きている喜びだ。
待つ
監視される暮らしの中で
耐え難い思いを味わうとき
あなたの激励の言葉が
あなたの支えの活動が
私の苦痛を静かに包み込んで
やがて
生きる力をよみがえらせてくれるまで
待つ
じっと待つ。
人間の真心を
真心からの愛を
こんなにも味わえる刑務所は
苦しさが喜びだ
生きる喜びだ。
苦しみも悲しみも
辛さも悔しさも
数え切れぬほどに味わった月日を
待って
待って
待ち続けて二十三年
真実を守る人々の
毅然たる姿勢と優しさが
正義を支える人々の
敢然たる歩みと愛情が
私の耐え難い思いの数々を
喜びに変えてくれた二十三年の歳月。
今、獄中に二十四度目の新年を迎えて
真実を守る人々と共にある喜びの中で
正義を支える人々と共にある喜びの中で
私は
明日を待っている
希望の明日を
待っている。( 1990. 12 )
『 夏が好き 』
汗まみれのシャツは
そのまま乾かして
また明日も着ると言ったらば
あなたは驚いていた
一日にコップ三杯の冷たい麦茶
ごく暑い日だけ使う工場の扇風機
あとは手動の団扇
これだけが夏の涼の刑務所は
そんなものです。
どんなに汗まみれになっても
夏が好きと言ったらば
あなたは呆れていたが
それは
もう四〇才も過ぎたのですから
暑くてウンザリする日もあります
眠れない夜もあります
食事の入らない時もあります
でも、ボクは夏が好きです
丸裸になれる夏が好きです。
もう無実の罪をきせられて二十三年です
心を張りつめて
気を引きしめて
自分の闘いと向かいあってきました
この上、寒さと闘わなければならない冬は
余りにも疲れます
その点、夏はいいです
丸裸になったらば
身の潔白も判ってもらえるような
そんな気もするのです
なにも隠すものがないボクには
無実の罪のボクには
夏こそがふさわしいのです
だから、ボクは夏が好きです。
( 1990. 9 )
『 押 し 花 』
怖いものなしに飛びはねていた
二十歳のころ
花を見る心などあるはずもなくて
獄中に月日を重ねて
四十歳を過ぎて
満足に花の名前すらも知らないと
なげいた私に
押し花を届けてくださる人がいる。
ていねいに便箋にとめられたものを
自分の手ではがす
わずかの時間に触れる押し花は
大部分が
もう咲いているときの色を失って
そこにある美しさは
送ってくださる人の心だけだ
でも
咲いていると同じような
あざやかな色の花もあって
思わずに見とれることがある
それは
どれも名前を知られないような花で
どこにでもある
ひそやかに咲いている野の花ばかりだ。
いのちの時を失っても
人の心に訴える力を保つ
押し花を手にするとき
人間の生きる道も見えるようで
もしかすると
自分の失ってしまった時も
いつの日か
人の心に訴える力となって
よみがえるような
そんな気持になる。( 1991. 1 )
『 太 陽 』
何年ぶりかで南向きの独房へ入った
ただ座っていることが
闘いと思えるような寒さ
それが冬の独房だ。
差し込む太陽の光の中に
全く寒さを感じないで座っていると
太陽を忘れていた
長い月日を思う。
幸せというのも
こんなものではないか
傍にある人は
特別に気付くこともないが
不幸の続く人は
ますます忘れてしまうのだ。
太陽は
何時も同じように
誰の上にも同じように
光っているのだが
人間の社会の
人間の仕組みが
太陽を忘れて暮らす人を作る。
南向きの独房で
太陽の光りの中で
人間の幸せを思えば
沢山の
沢山の
太陽を忘れて暮らす人が
ただ座り続ける人が見える。( 1990. 11 )
『 目くばせから 』
大好きな餅が二個
おせち料理の折箱が二個
みかんが三個
りんごが一個
三ヶ日という指定期日には食べきれず
いつも捨てる落雁が一個
こういう決ったメニューの正月が二十四度目
いいかげんにウンザリしそうなものだが
今年も
新鮮な気分になって
良いことがありそうに思えて
ひとり笑いをしそうだ。
この一月には四十四才になるのに
正月を迎えて喜ぶ
僕の心は二十才のままだ。
誰かに喜びを
この思いを伝えたくて
会話を禁じられた仲間に
初めて会う仲間たちに
万感の目くばせを送る。
ささやかな目くばせから
ささやかな目くばせから
獄中の一年は始まる
僕の闘いの一年は始まる。( 1991. 1 )
『 カラスの鳴く朝に 』
カラスが鳴いた
遠くのカラスが鳴き返した
四度鳴くと
四度鳴き返す
何かを語るかのように
ゆっくりと鳴きあっている。
眠い目を開けて窓を見れば
やっと明るくなり始めたところだ
どうやらカラスは
朝が来たのを告げあっているようだ。
カラスにとっては
何も見えない夜は
大変な苦痛なのかも知れない
夜の闇は恐怖なのかも知れない
それで
やっと薄明かりの空なのに
闇から開放される喜びを
語りあっているのだろう。
どこかで壁を叩く音がする
やはり、カラスに起こされたのか
どこかに壁を叩く人がいる
でも
どこにも応える音はない
カラスの鳴く朝に
沈黙する獄舎を貫いて
小さな音は続いている
まるで、ボクの訴える真実のように
小さな音は続いている。( 1990. 6 )
『 自由の中へ 』
鉄の扉が開いて
ゆっくりと車が動き始める
今日は年に一度の外出日だ
社会の自由を味わう日だ
少し高ぶった思いを乗せて
バスは街へと出ていく。
車が行きかい
当り前に人は歩き
六月の街は緑にあふれていた
六月の街は
美しい緑につつまれていた
自由
自由
どこを見ても
そこにあるのが当然の自由
自由の風の中を
バスは走る。
刈り込みに捨てられたゴミ
汚れた高速道路
排気ガスの臭い
電柱の真理教のポスター
右翼の街宣車
決して
キレイごとだけでない
自由ばかりでもない社会を
バスは行く。
何時の日か
無実の罪が証されて
この社会へ帰る日には
ボクは自由を大事にするだろう
誰よりも自由を愛するだろう
二十三年の不自由な日々を乗せて
バスは行く
ボクの心は
自由の日へ
自由の中へ
走る!
走る!( 1990. 6 )
『 吹きだまり 』
刑務所は吹きだまりだ
仲間が自嘲ぎみに言った
そう言えば、そうかも知れない
刑務所の中にも
風の吹いた日のあとに通ると
いつも何かがある場所がある
ある時は落葉だったり
ある時は刈り草だったり
ある時はゴミクズだったり
どれもが風に吹き集められて
きれいに手入れしたようになっている
それはオレたちみたいだ
どこからか集まってきて
毎日の生活も
歩く手足さえも
まるで測ったように決められ
整然とある月日を過ごし
いつの間にか別れて行く
そうだ、刑務所は吹きだまりだ
でも、オレは人間だから
風の吹くままに飛ぶのが嫌で
いつも自分のことを見つめている
いつも、人間である仲間を見つめている。( 1990. 7 )
『 同居者に 』
壁の隅に蜘蛛がいる
もう十日以上も同じところにいる
それが蜘蛛流の生き方なのか
位置を変えることもなく
同じところにいる。
この小さな生命が
今年の秋の同居者だ。
狭い独居にいる
小さな小さな同居者よ
動く気配もない同居者よ
華やかな色彩に隠れている冬を
近づく寒さを
君も感じているのだろう
でも、春は見えるだろうか
寒さの先にある春を
君は感じることができるか。
僕の秋を慰めてくれる
小さな小さな同居者よ
僕は君に
僕が見る春を
美しい春を
喜びの春を見せてやりたいよ。( 1990. 11 )
『 空 』
空は
足もとから始まっている
そう思えたとき
いつも見上げていた
希望やしあわせが
自分の隣にあるのも気付いた
空は
空は足もとから広がる。( 1991. 1 )
『 安 全 靴 』
一日中、靴をはいた
二十三年振りだ
新品の安全靴に
初めは嬉しいような気持ちだったが
二時間ぐらいしたら
甲が痛くなった
夕方になったらば
あっちこっちが痛くなった
すっかり靴を忘れた
自由に過ごした足は
たった一日で悲鳴をあげた。
二十三年間
不自由な獄中にあって
私の心は
どんな悲鳴をあげていることだろうか。( 1990. 10 )
『 8078日目 』
ぼくの獄中生活は
もう電卓が必要なぐらい
長くなった
過ぎた時間だけ
自分も身の回りも変っているのに
その変化は判っているはずなのに
ゆうべ飲んだビールは
一本、170円だった
大好物のトマトは
一皿、50円だった
夢の中では22年前の生活が続く
4万円もする高級紳士靴を作る
刑務所での仕事は12年目に入って
ぼくの時給は
27円60銭
月に7千円余りが労賃だ
ぼくの生活感覚は
22年前のままだが
毎日の暮らしは
もっと古い時代に取りのこされている
明治時代に作られた法律の中で
今日は、8078日目。( 1989. 11 )
『 若葉のように 』
今年も芽吹きのときが来て
塀の上の大木に
新しい命がゆれる
落葉樹の若葉は悲しい
失った青春
奪われた歳月
消えていった夢のように
一色のみどりは悲しい
美しくて悲しい。
私は常緑樹の若葉が好きだ
古い葉のうえに
おずおずと立ち上がる若葉が好きだ
季節に耐えてきて
少し疲れた葉を包んで
甦えらす若葉が好きだ
何ごとにも耐える精神と
明日を見つめる希望と
そこには私の22年がある
無実の罪の22年がある。
今、芽吹きのときが来て
私の中に
一度も失うことのなかった希望は
鮮やかに立ち上がる
常緑樹の若葉のように
若葉のように。( 1990. 4 )
『 夢を見たい 』
夢を見て
夜中に目覚めては
あれ、ここはどこだ
と思ったのは
まだ土浦拘置所にいる頃だった
薄汚れた木張の壁
熱い鉄板の扉
金網と鉄格子の窓
それらが常夜灯に鈍く光っていたのを
今でも覚えている
夢を見て目醒ては
ここはどこだと思っていた。
自由な夢を見て
いつ自由になったのだ
いつ社会へ帰ったのだ
と夢の中でいぶかしむようになった頃
東京拘置所にいた
三畳一間の独居房は
木造りからコンクリートになって
昼も夜も消えることのない電灯の下で
夢の中で自由をいぶかしむ私を
私の夢を冷たく見つめていた。
夢を見て
自由な夢を見て
そんな筈はない
俺は逮捕されているのだ
と思うようになってから
もう長い月日が過ぎる
遊ぶ夢も
働く夢も
女性の夢も
たわいのない夢も
それが自由である限りは
みんな みんな
そんな筈はない
俺は千葉刑務所にいるのだ
と思うようになって
もう何年になるだろうか
夢の中の自由を失って
もう何年になるだろうか。
夢を見たい
刑務所にいる夢を見て
俺は自由になった筈だ
俺は社会へ帰った筈だ
と思う夢を見たい
夢を見たい
夢を見たい
自由に夢を見たい
自由な夢を見たい。( 1987. 10 )
『 春 の 雨 』
春風が吹けば
春風が吹けば
たとえ冬の風の痛みを知らないものでも
その優しさをよろこぶだろう
そのぬくもりに
心をおどらせるだろう
でも
春の雨の優しさを知るのは
冬の雨のいたみを知るものだけだ
春の雨のよろこびを味わえるのは
冬の雨に打たれたものだけだ
春の雨にけむるシャバを
春の雨にぬれるシャバを
鉄格子の向こうにながめながら
ボクは春の雨に心をぬらしている
ボクは春の雨に心をあらっている。( 1988. 3 )
『 どこかで誰かが 』
雨の日はきらいだ
自由のない毎日には
雨なんて
二重に閉じこめられるみたいで
雨の日はきらいだ
でも
どこかで誰かが
雨を喜んでいるだろう
晴れの日はきらいだ
刑務所暮らしには
晴れなんて
動けない辛さを感じるばかりで
晴れの日はきらいだ
でも
どこかで誰かが
晴れを喜んでいるだろう
僕は
ひとが喜んでいるのが好きだ
人が喜んでいるのが好きだから
本当は雨でも晴れでも
どっちでもいいんだ
どこかで誰かが
今日という一日を喜んでいれば
それでいいんだ
雨の日も
晴れの日も
辛いと感じて生きている者のことを
きっと
どこかで
どこかで誰かが
思ってくれるだろうから。( 1989. 7 )
『 チャンネル 』
テレビにはチャンネルがあるものだが
刑務所の舎房を巡るテレビにはチャンネルがない
今の時代には沢山のタブーがあって
そもそも番組の作られるハナから選択されている
という話だが
その上に
更に刑務所では選択を重ねて
人畜無害の番組が流されるという仕組みだ
何を基準に
どのように選ばれたものか
今日はたわいのないおふざけ番組が流れている
画面の中の人々は
実に愉しそうに
いかにも自由だとばかりに
笑ったりヤジったりしている
ボクは
いっせいに笑い
いっせいに声をあげる人々を見ているうちに
画面の中の人々の背中にチャンネルを見ていた
ボクには
テレビの番組を選ぶ自由はないが
社会を見すえるチャンネルはある
人の世を見分けるチャンネルはある
でも
画面の中でいっせいに笑う人々は
自分のチャンネルを持っているのだろうか
いっせいに声をあげる人々を見るたびに
背中に固定されたチャンネルが見えてくる( 1988. 9 )
『 ただいま 』
ただいま
聞く人のない言葉をつぶやく
靴を縫って
運動時間は走り回って
たわいないことを話して
九時間余りを工場で過ごして
独居房に帰りつくとき
ただいま
あなたの手紙にむかって
つぶやく。
ただいま
返事のない言葉をつぶやく
同じようなことを繰り返して
特別のこともなくて
八時間余りで終わる入浴日にも
独居房に帰りつくとき
ただいま
守る会ニュース紙や救援新聞に向かって
つぶやく。
ただいま
祈りのように言葉をつぶやく
一つの社会である
特殊な社会である獄中にあって
無実の身の辛さや苦しさ
怒りや悲しさに耐えた日
独居房に帰りつくとき
ただいま
見守って下さる人に向かって
つぶやく。
ただいま
つぶやくたびに
私を支えて下さる
たくさんの人の心を感じる
ただいま
つぶやくたびに
笑顔が浮かび、言葉を感じる。
社会へ帰った日に
ただいまと言えば
きっと返ってくるだろう
きっと返ってくるだろう
あなたの笑顔と言葉が
今日もつぶやきに
優しくこたえてくれる
ただいま。( 1990. 10 )