あなたは ☆ 名探偵 ― 布川事件を推理しよう!
第1回 ・・・ <謎の缶詰>
多くの<えん罪事件>がそうであるように、<布川事件>にも今だに解明されていない数多くの<謎>が存在します。例えば、侵入口・逃走口の問題、便所の窓の問題、犯行時刻の問題、事件現場の指紋の問題、被害にあった金品等の問題、そして殺害方法の問題等々・・・。
私の疑問は、皆さんの疑問・・・(?)と勝手に思い込みつつ、このコーナーでは幾多の批判を怖れずに、<布川事件>についてこれまでに分かっている事実を基に、皆さんと一緒に大胆な推理をしてみたいと思います。
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まず、事件発生当初から<捜査官>の頭を悩まし続け(?)、今もって私を悩ましている<謎>を取り上げたいと思います。先に、<布川事件>の<検証調書>(昭和42年8月30日)をご覧下さい!
問題の部分は、次のようになっています。「 (玉村さんの遺体は) 左右の足は逆くの字形に曲げていて、ズボンの右脇ポケットに、・・・ 明治ゆであづ(ず)き罐詰1個とその下側に折畳んだ手拭1本が入れてあって、・・・ 」
私が何故この問題を取り上げたのか、分かって頂けましたか・・・? まず、自分の生活を考えてみて下さい! 1日の仕事を終えて帰宅しました。そこで、あなたは最初に何をしますか? えっ「 冷蔵庫を開けてビールを飲む!」・・・いいですねぇ、特に今年みたいにクソ暑い夏は、ほんとにそれが最高です!・・・でもその前に、ポケットの中の物を出したり、腕時計とか、イヤリングとか、身に着けているものを外してリラックスしませんか? シャワーを浴びたり、着替えをする人もいるでしょうネ・・・!
では更に、この時の玉村さんの服装にも注目してみましょう! 先の<検証調書>には、「 ・・・被害者の玉村象天が木綿の半袖シャツ、カーキ色ズボン、緑色地に濃い黄色の縞模様靴下をはいて、・・・」と記載されています。とても、自宅で寛(くつろ)いでいるような格好とも思えません!!
『明治ゆであずきの缶詰』・・・ <検証調書>にはサイズも重量も書いてないのでよく分かりませんが、いつまでもズボンのサイドポケットに入れておくような品物でないことだけは確かです。
左の写真は、現在一般に市販されている『明治ゆであずきの缶詰』です。 玉村さんのズボンのポケットに入っていた缶詰も、おそらくこれと同じ位の大きさの缶詰ではないかと思われます。
(直径8cm、高さ4.5cm、重量250g)
※ なお、この缶詰につきましては、後日<検証調書>に添付されていた写真のコピーを見る機会がありました。現在市販されているものの方が幾分スマートかなという感じはしますが、ほぼ上の写真の缶詰と同じ位の大きさだったということが確認できました!
― では何故、殺害された玉村さんのポケットに入っていたのか・・・?
それを考える前に、まず事件当日(昭和42年8月28日)の玉村さんの足取りを辿(たど)ってみましょう!
<証言1> 次のような2人の証言があります。
吉岡かねさんの供述によると、「 (玉村さんは) 鶏舎を作るために8月25日頃から仕事に来てくれ始め、28日は午前8時頃に来て、午後6時30分頃に帰った。」
また、米元十志さんの供述によると、「 同日午後7時〜7時30分頃の間に、玉村さんは家(米元方)に立寄り、用件(工事代金の取り立て)を頼んで5分くらいで帰った。」
この日の足取りで判明しているのはそこまでで、それ以後は分かっていません。布川谷原(やわら)の吉岡さん宅から布川新町、布川馬場を経由して玉村さんの自宅までの道のりは約1.2q。米元さん宅は、丁度その中間点にあります。信号の全くない平坦な田舎道なので、歩いても20分足らずの距離です。
その日、玉村さんは自転車でした。8月下旬の夕刻、朝から時々小雨がパラつくといった愚図ついた天気だったので、恐らくもう真っ暗になっていたことでしょう! その点を考慮に入れても、午後6時30分頃に吉岡さん宅を出た玉村さんは、米元さん宅以外に何処にも立ち寄らなかったとしたら、遅くても午後7時頃には自宅に帰り着いていた筈です。仮に米元さんの証言も考慮に入れて、吉岡さん宅を午後6時45分頃出たとしても、午後7時15分頃には帰宅していたと考えられます。
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<証言2> さらに、もう1つ注目すべき証言があります。
「 8月28日の午後7時半から8時の間に玉村方前を自転車で通った際に、2人の男を見た。門口に立っていた男は、年令22〜3才、やせ型、頭髪はのばしていた。服装はよく分からなかった。もう1人は、部屋の中から顔を出すようにしていた被害者と向き合って立ち話をしており、年令は25〜6才、頭髪はのばしていた。服装はよく分からなかった。」という、近くに住む小貫少年(当時中学1年生)の証言です。
捜査当局が、<犯人2人説>に傾いて行くきっかけとなった重要な証言ですが、勿論当時は、桜井さんも杉山さんも頭髪を伸ばしてはいませんでした。
― さて、問題の『明治ゆであずきの缶詰』ですが、一体どこで手に入れたのでしょうか・・・?
ここまでの区間には、玉村さんと<缶詰>の接点はなさそうです。たとえば、吉岡さん宅か米元さん宅で貰ったものだとしたら、警察の聞込みに際して当然そのように言っている筈です。勿論偶然、帰宅途中に知人と出会って、その人に貰ったということも考えられますが、玉村さんが殺害されたとされている午後9時頃(?)までポケットに入れたままにしていたのは不自然です。また、午後7時半〜8時の間に訪ねてきた2人の男に貰ったとしたら、普通はポケットなんかに入れたりはしないでしょうネ!
※ なお、余談ではありますが、面白いことにあの吉田検事もこの缶詰の件には疑問を感じていたらしく、取調べの時にそのことを杉山さんに尋ねています。しかし、杉山さんが「 わからない 」と答えると、それ以上は追求しなかったそうです。もし吉田検事がそこで止めずにその疑問を何処までも追求したならば、この<えん罪事件>はきっと起きなかったでしょう、そんな気がします・・・!(『 上告趣意書/杉山卓男 』参照 )
― さて、話を元に戻します。
<事実1> これまでに、次のような事実が判明しています。
玉村さんのその日の帰宅経路上には、その当時食料品店と駄菓子屋がありましたが、この<明治製菓の缶詰>は、布川周辺の商店では販売されてなくて、木下(きおろし)駅前(JR成田線)のパチンコ店の景品らしい事が確認されています。そして、玉村さんもそこの常連だったようです。
― では、玉村さんの帰宅後の行動を推理してみましょう・・・!
<事実2> その前に、もう一度<検証調書>のこの部分に注目して下さい。
「 風呂場の東側は、間口・奥行とも1.8mの流し場で、北側の出入口には囲はない。中には、・・・ 正面のほぼ中央に巾76cm、奥行46cmコンクリート製流し台が72cmの高さに据付けてあって、流し台の左側にニューム製洗桶が載せてあり、台の上方50cmの位置に水道の蛇口がつけてあって、捻ると水が出る。・・・ さらにその奥の木製台の上には、向って右側にバケツ、その上にニューム製洗桶が載せてあり、左側に乾いたカーキ色の布2片が無造作に置いてある。」
玉村さん宅は、以前、近くの歯科医院の建物だったものを譲り受けて移築したためか、昔の農家のように風呂場と洗い場は居宅の外にありました。そして、居宅内にある勝手場は次のようになっていました。
「 踏石の上のガラス戸を開けて入ったところは、東西2.7m、南北1.24mの広さの板縁の勝手場で、・・・ 右側に鉄製の台2つが並べて置いてあって、向って左側の・・・ 台の上に円筒形の石油コンロ2つが並べて載せてあって、その下の板縁にコードをつけた電気釜が蓋(ふた)に埃(ほこり)をつけたまま置いてあり、・・・。」
「 ・・・ 冷蔵庫が、扉を東方に向けて置いてあるが、電源は切ってあって、中には木の箱に入った小魚の佃煮が入っているのみであった。冷蔵庫の上には、・・・ 水が半分位入った薬罐(やかん)、シャジ(スプーン)の入った飯茶碗、空の湯飲茶碗各1個、汚れた手拭1本、その他白い布片等が載せてある。」
以上のことから分かるように、少なくともこの夜は自宅では食事をしていなかったようです。玉村さんは生涯独身で、ずっと気ままな生活をしていたらしく、おそらく殆(ほと)んど外食(?)だったのでしょう・・・!
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― では、その夜の玉村さんの帰宅後の行動は・・・?
ここからは想像するしかないのですが、まず勝手口の前に自転車を止めた玉村さんは、その日履いていた<地下足袋>を脱いで、たぶん<薄青色サンダル>に履き替えたのでしょう。
<検証調書>には、次のように記載されています。
「 踏石の東寄りに・・・ ビニール製の薄青色サンダルが左片方は爪先を北方(居宅方向)に向け、右片方は東方を向けて左片方を上にして脱いであり、・・・。」
さらに、「 (勝手場の)台の前方30cmで勝手場の奥の棚の柱から、東南方21cm、押入側の波形トタンの南方6cmの位置に、底を合わせた地下足袋1足が下側の爪先を北方に向けて置いてある。」
次に、おそらく自転車の荷台に積んであった(?)と思われる道具箱を下ろして、居宅内物置の前(?)に置いたのでしょう。この辺のところは、「 道具箱が吉岡さん宅に置いたままになっていた 」という話を当時聞いた気もするので確かではありませんが、通常大工さんは、大切な大工道具を現場に置っ放しにはしないでしょう・・・?
<集金鞄>のようなものを持っていたとしたら、その前に8畳間のロッカー(?)に仕舞ったかもしれません。米元さん宅に立ち寄ったときに、おそらく請求書を渡したと考えられるし、それにお金を集金した場合には、直接ポケットに入れたりなんかしないでしょうし、・・・。 この鞄については、<検証調書>には何の記載もありません。
― もしかしたら、ロッカーの中身について説明している部分に、「 巾25cm、高さ15cmのチャック付茶色皮鞄1個が入っていて、・・・。チャック付皮鞄の中には、貸金証書、領収書、簡易保険領収書、生命保険証書等が入っていた。」と記載されていますが、これがそれでしょうか?
その後、流し場で手や顔などを洗ったのでしょうか、<風呂桶の栓>は抜いてありましたが、流し場と風呂場の間にある裸電球が点いたままになっていました。そして、玄関の戸の隙間に挟まれていた8月28日付朝日新聞の夕刊を持って8畳間へ・・・。
前述の<2人の男>が訪ねてきたのは、この後でしょう。そして、この直後に殺害されたのでなければ、玉村さんは2人が帰った後に、たぶん自転車(?)で食事に出掛けた筈です。 ― この点については、目撃者がいません。― 飲食店は、布川横町丁字路付近から栄橋周辺にかけては数軒ありますし、布佐駅周辺にも何軒かありました。
目撃者が現れないことについては、幾つか理由が考えられます。勿論、玉村さんが外食していなかったという事もあり得るのですが、飲食店主にしても常連客の場合は特に、食事をしたのがその事件当日だったのか、その前日だったのかがはっきりしないので申し出なかったという場合・・・。
さもなければ、捜査本部は小貫少年の目撃した<2人の男>が犯人だと頭から信じ込んでいた為に、その辺の聞込みにはあまり力を入れなかったか、もしくは、有力な情報があったにもかかわらず握り潰(つぶ)してしまったか・・・?
― 何れにしても、どこで食事をした(又はしなかった)のかは不明です。
この点に関しては、検死医の<鑑定書>によれば、胃の中はほとんど空の状態(胃の内容物は約5t)で、少なくとも食後3〜4時間経過しているものと考えられます。このことは何を意味しているのでしょうか? 「 食前に殺害されたか、もしくは食後かなり時間が経ってから殺害された 」ということで、もし仮に<死亡推定時刻>が午後9時頃だとすると、この日は夕食を摂っていなかったことになります。
― 但し、残念なことに当時の茨城県には監察医務院のように設備の整った施設もなく、また優秀な人材もいなかったために、法医学についてあまり深い知識のない日立市の嘱託医が検死解剖を担当、しかも何んと驚いたことに玉村さん宅南側前庭で行われたのです。その為、この鑑定書自体にはあまり信頼性がないと言われています。―
因みに確定判決の認定した<死亡推定時刻>の午後9時頃というのは、この<鑑定書>の「 (死後経過時間は)解剖を実施した8月30日午後5時1分を基準として死後約45時間内外とする 」という判断に基づいたものです。しかし、この鑑定に対しては、「 本件被害者の死体は、その解剖時(起算点を8月30日午後4時として)、死後30時間から40時間を経過していたと考えるのが相当 」だとする千葉大医学部の木村教授による<意見書(旧)>も存在し、それによれば、「 被害者の死亡時刻は、8月28日午後11時30分から8月29日午前9時30分までの間 」ということになります。
― <死亡推定時刻>を特定するのは、なかなか難しいようです。
ところで話は戻りますが、― 玉村さんが自宅を1歩も出ていないとすると<缶詰>との接点がないので、これからは何処かで食事をしたという前提で話を進めます ― 玉村さんを目撃した人がいないことから、もしかしたら木下(きおろし)駅周辺の飲食店で食事したのかもしれません。そして、件(くだん)のパチンコ店へ・・・。もしそうだとすると、玉村さんは<死亡推定時刻>の午後9時頃には帰宅していなかった可能性がおおいにあります。
※ 余談ですが、最近『 パチンコ依存症 』という言葉を良く耳にします。これは『 ギャンブル依存症 』と同義語のように使われていますが、そこまで重症ではなくても<パチンコ>にはかなりの<習慣性>があるようです。一人暮らしで無聊(ぶりょう)をかこっていた玉村さんが、帰宅後そのパチンコ店に毎日のように通い詰めていたとしても、少しも不思議なことではありません!
― では視点を変えて、何故に<ゆであずきの缶詰>だったのでしょうか・・・?
答えと思われるものが、<検証調書>の中にあります。8畳間にある<茶ダンス>の中の状態を記載した部分で、「 上側のガラス戸の中には、・・・ パイナップル罐詰4個、罐に入ったココア3罐、・・・。 その下の戸棚には、角砂糖2箱、洋かん22本、・・・。」
そうなのです! 玉村さんは<大の甘党>なのでした! ― しかし、羊かん22本とは何んとも凄(すさ)まじいですネ!
当時のパチンコは、今のようなインフレ電動パチンコ(?)とは異なり、1発ずつ玉を込めて指で弾くタイプのものでした。ここからは私の勝手な想像ですが、― この日は余り成果がなかったのでしょう。堅実な玉村さんは、手元に残った何発かの玉で好物の『明治ゆであずき』の缶詰1個と交換。それを、ズボンの右サイドポケットに入れて帰路に・・・。
帰宅した玉村さんは、そこで異変に気付きます。急いで勝手口の前に自転車を止め、慌ててサンダルを脱いで8畳間へ飛び込んだ! そして、・・・。
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― 以上のストーリーには、何の証拠もありません。しかし、全てを否定し去るような根拠もありません!
前にも言いましたように、この日はとても愚図ついた天気でした。普通の人だったら、雨に濡れないように自転車を軒下に仕舞うとは思いませんか・・・?
※ なお、これは人伝(ひとづて)に聞いた話ですが、玉村さんはとても几帳面な性格で、帰宅後は必ず自転車を物置に仕舞っていたそうです。
左の写真でも分かるように、<勝手口>の前に自転車が停めてあります。 <検証調書>には、「県道から3m位東方で玄関の南側に、荷掛に麻組の巻いてある中古自転車が1台ハンドルを東方に向けてスタンドを立てて停めてあって・・・前車輪の右側につけてある 発電ランプの発電機は点灯装置にしてあった。」と記載されています。
※ 因みに、手前入口が<玄関>で奥が<勝手口>です。
そして、前述の<検証調書>のこの部分。 ― 「 ビニール製の薄青色サンダルが左片方は爪先を北方(居宅方向)に向け、右片方は東方を向けて左片方を上にして脱いであり、・・・。」 ― 私には、サンダルを慌(あわ)てて脱いだようにしか思えません。
― さあ、貴方ならどんな推理をされますか・・・?
( 2001. 8 T.Mutou )