[資料8−1] 検 証 調 書 (甲)
昭和42年 8月30日 様式第41号 (刑訴第218条、第222条)
※ 媒体の性質上、縦書きの文章を横書きに改め、漢数字を算用数字に、漢字表記の単位を記号表記に直しましたが、内容はほぼ原文通りです。なお、読み易さを考慮して、適宜スペースを設けてあります。
被疑者不詳に対する殺人被疑事件につき、本職は、昭和42年 8月30日付竜ヶ崎簡易裁判所裁判官河野道雄の発した検証許可状を玉村明に示して、次のとおり検証した。
昭和42年 9月22日
取 手 警 察 署
検 証 の 日 時 昭和42年 8月30日 午前10時50分から 昭和42年 8月31日 午後 4時30分まで
検証の場所又は物 北相馬郡利根町大字布川2536番地玉村象天宅およびその付近 検 証 の 目 的 犯罪現場の模様を明らかにし証拠保全のため 検 証 の 立 会 人 住 居、職 業
氏 名、年 齢
北相馬郡利根町大字布川・・・・
雑 貨 商 玉 村 明 49年
千葉県東葛飾郡我孫子町布佐・・・
雑 貨 商 玉 村 泰 70年
検 証 の 経 過
本検証は8月30日午前10時50分より開始したが、午後4時50分一時中止し、翌31日午前9時20分より再開し午後4時30分終了した。
1.現 場 の 位 置
現場は、北方茨城県、南方千葉県の境をほぼ西北方から東方に流れている利根川に沿った長方形を区域とする北相馬郡のほぼ中央の川際に発達した、取手町にある常磐線取手駅の東南方10km位の地点で南に孤を画いて流れている川の下流に向って左岸の堤防上の道路を2km位南東進した地点から東に延びる台地と堤防の間に発達した利根町大字布川の市街地の東端で、ほぼ南から北に通じている巾4.9m位の県道の東側に、道路に沿って南向きに建ててある屋根を緑色に塗った木造トタン葺平屋建が現場である玉村象天方居宅で、現場付近は道路に沿って商店住家等がやや密集している。
現場西側の県道を90m位北進した地点にある利根町公会堂の東側を右折して400m位東進した地点の丁字路を左折して北進すると竜ヶ崎市方面に至る。
現場西側の県道を193m位南進した地点の丁字路を左折して東進すると稲敷郡河内村方面に至り、丁字路を右折して巾7m位の県道に沿った商店街を300m位西進した地点から利根川左岸の堤防上の道路を西北進すると取手町に達し、道路が堤防上にでた地点の利根川に架けてある巾5m 長さ209mの栄橋を渡ると千葉県東葛飾郡我孫子町布佐の市街地で、北西方から南東方に通じている県道を南東進すると千葉県成田市方面に達し、北西進すると常磐線我孫子駅方面に至る。
さらに100m位西北進した地点の丁字路を左折して600m位南東進すると我孫子駅から分岐して成田駅に通じている国鉄成田線の布佐駅に達する。( 別添見取図第1号参照 )
2.現場付近の状況
現場は、利根川堤防と布川台地にはさまれて、ほぼ三角形に人家が立ち並んだ地域の東側で南北に通ずる県道に沿って商店および住宅が立ち並んでいるが、その東方は一面の水田である。
現場の48.1mの地点に取手警察署利根巡査駐在所、その北方42mの地点に利根町公会堂があり、公会堂の道路を西進すると100mにして布川小学校正門前に達し、さらに380m位西進すると利根川堤防下に至る。( 別添見取図第1号、第2号参照 )
(1) 現場北側の状況
現場北側は、東西に通じている巾2.7mの農道および排水路をへだてて
店 員 中 野 弥 三 郎
建 具 職 白 戸 半 四 郎
消 防 器 具 置 場
利 根 巡 査 駐 在 所
農 業 森 杉 藤 太 郎
公 務 員 森 杉 巽方等が並んでいる。
(2) 現場東側の状況
東側は、一体に水田にして、黄色に色づいた稲が斑に刈り残してある。
現場北側を東西に通じている農道を東進すると700m位にして利根町谷原部落に達するも、同農道は農作業以外の通行人は稀れである。
(3) 現場南側の状況
南側は、玉村方の材料置場をへだてて12mの地点に
会 社 員 田 口 潔
方があり、その南側に
左 官 職 秋 山 栄 二 郎
保険外務員 鳥 居 康 七
金 物 商 遠 山 嘉 一 郎
農 業 三 谷 茂 三 郎方等が軒を並べて建っていて、その南方にはさらに人家が並んでいる。
(4) 現場西側の状況
西側は、巾4.9mの舗装した県道をへだてて
会 社 員 池 辺 安 蔵
教 員 藤 後 邦 夫方があり、さらに南側に
運 転 手 木 村 秀 吉
肥 料 商 矢 口 寿 男
行 商 沢 辺 く に
荒 井 自 転 車 店
建 具 職 戸 坂 県 蔵方等が並んでいて、池辺方北側は排水路および巾3m位の道路をへだてて
運 転 手 高 須 健 輔
星 野 鉄 工 所
自 転 商 中 沢 二 郎
理 髪 店 小 野 勇
鶏 卵 商 金 井 与 四 郎方等が並んでいる。( 別添見取図第3号、写真1、2、3号参照 )
3.現 場 の 模 様
(1) 屋 外 の 模 様
玉村方の敷地は、南北12m、東西12.9m位のほぼ正方形にして、北側と西側に道路が通じていて、南側は材料置場をへだてて田口潔方に接しており、東側は水田である。( 別添見取図第5号参照 )
(1) 居宅北側の模様
北側は、県道際から農道に沿って軒下に10.4mにわたって高さ1.9mの板塀が建てあり、東端の高さは2.2mで、その東側に巾1.8m、高さ1.8mで、板塀より40cm低い格子の木戸が閉めてあって、外側からは開かない。
木戸の外側も内側も雑草が密生していて、木戸を開閉している形跡はない。
板塀際の農道には巾1mくらいにわたって、30cm乃至80cm位の高さに伸びた雑草が密生していて、蔓草は板塀の上まで伸びていた。( 別添写真5、6号参照 )
(2) 居宅西側の模様
西側は、居宅の土台から1m位の位置に巾35cm、深さ50cmのコンクリート製の側溝が南北に通じていて、下水が流れていた。
居宅に向って右側は、巾3.2mにわたって波形トタン張りで窓はない。
向って左側は、鎧張りに板が張ってあって、地上から1.05mの高さのところに60cmの間隔をおいて、巾1.2mの窓が2つあって、クモリガラス6枚入った巾62cmのガラス戸2枚づつ閉めてあって、戸は開かない。
2つの窓の間で、地上から1.45mの高さのところに積算電力計がついている。
窓下の敷地は、側溝外側のコンクリート壁より9cm程低くなっていて、30cm位の高さに伸びたフキその他雑草が疎らに生えている。( 別添写真4、5号参照 )
(3) 居宅南側の模様
(イ) 居宅入口の側溝には、巾2.5mにわたって木製の蓋がしてあって、その奥に2.4mの間隔をおいて、高さ2.38mの角形門柱2本が建てあって、道路から向って左側門柱から居宅西南隅の柱までの距離は85cmであり、右側門柱の内側には上を切り抜いた石油罐3個が赤錆びて置いてある。
居宅は、県道の側溝より1m東寄りにほぼ南向きに建て、間口6.4m、奥行6.9m、建坪45.5u位の木造平屋建で、歯科医の治療室を改造増築したもので、県道寄りに巾1.73mの玄関があって、巾88.5cm 高さ1.76mのカスリガラスの入った格子戸2枚が閉めてあって、戸は開かない。
左へ閉めた外側の戸の右側框(かまち)には、敷居から69cmの高さのところにシリンダー付外締錠がつけてある。
右側へ閉めたガラス戸の右側框(かまち)と柱の間の敷居の上に写真2号に示したとおり、朝日新聞8月29日付と30日付の朝刊が30日付新聞を上にして差込んであった。県道から3m位東方で玄関の南側に、荷掛に麻組の巻いてある中古自転車が1台ハンドルを東方に向けてスタンドを立てて停めてあって、写真16号に示したとおり、前車輪の右側につけてある発電ランプの発電機は点灯装置にしてあった。
自転車のスタンドから玄関に向って左側の柱までの距離は2.5m、右側柱までの距離は1.7mで、側溝外側までの距離は2.68mである。
玄関の右側は、巾1.75mにわたって空色のビニール波形トタン板が張ってあって、その東側に長さ1.72m、巾49cm、高さ29cmのコンクリート製の踏石がある。
踏石の東寄りに写真17号に示したとおりビニール製の薄青色サンダルが左片方は爪先を北方(居宅方向)に向け、右片方は東方を向けて左片方を上にして脱いであり、その西方20cm位の踏石の上にマッチの軸木5本が落ちており、さらにその西方50cm位のところにマッチ軸木1本が落ちていたが、古いものと思料される。
踏石に向って左端から1本のマッチの軸木までの距離は54cmで、5本のマッチの軸木までの距離は1.14m、さらにサンダルの左踵までの距離は1.32mで、踏石の手前までの距離は24.5cmである。
踏石の南側および東南側にも1本づつ4本のマッチの軸木が落ちていた。
踏石の前方下側に落ちている軸木から踏石の左側角までの距離は1.15mで、その南側に落ちている軸木から踏石までの距離は26cmで、踏石の左側角までの距離は1.45mである。
さらに踏石の東側に落ちているマッチの軸木から踏石の右側角までの距離は27cmで、その手前のマッチの軸木から踏石の右側角までの距離は24cmである。
踏石の37cm上方に巾88.3cm 高さ1.84mで、銀モールガラス4枚の入った腰板付ガラス戸2枚を閉めた巾1.72mの出入口があって、左側へ閉めた外側ガラス戸の右框には、敷居から86cmの高さの位置にスプリング付外締錠がつけてあるが、鍵は閉めてなく、左側へ閉めたガラス戸は、写真20、21号に示したとおり2.8cm程隙間ができていた。
出入口の東側は巾90cmにわたって空色のビニール波形トタンが張ってあって、東南隅に濃い緑色に塗った雨樋がある。( 別添見取図第5号、第7号、写真11号乃至21号参照 )
(ロ) 居宅の南側には、3.1m乃至2.1m離れて間口6.6m、奥行2.14mのトタン葺材料置場が建てある。
材料置場は、西側の道路際が板張りになっていて、東側は風呂場に接続しているが北側と南側は囲はない。中には角材、板、タルキ、貫、ベニヤ板等の建築材料が積み重てあった。
材料置場の南端から南方6.3mの位置に田口潔方の居宅が建てあるが、北側には雨戸、窓等はない。
(ハ) 材料置場の東側は間口、奥行とも1.8mの風呂場で、東側と南側は波形トタンが張ってあるが、西側は板張りで、北側に右へ開く巾80cm、高さ1.76mの廻戸があって、下から61cmの高さの位置に写真22、23号に示したとおり掛金をつけシリンダー付南京錠が締めてある。
廻戸を開くと正面に焚口を北方に向けた楕円形の風呂桶が据付けてあるが、桶の中の栓は抜いて釜の上に載せてある。風呂場の出入口の西側に、東西1.9m 南北80cmで1.45mの高さに建築用ブロックが積み重ねてあって、その上に木片が雑然と載せてあり、ブロックの西側に石油の入ったドラム罐1本がブロックにたてかけるように置いてある。
(ニ) 風呂場の東側は、間口・奥行とも1.8mの流し場で、北側の出入口には囲はない。
中には、写真22号に示したとおり正面のほぼ中央に巾76cm、奥行46cmコンクリート製流し台が72cmの高さに据付けてあって、流し台の左側にニューム製洗桶が載せてあり、台の上方50cmの位置に水道の蛇口がつけてあって、捻ると水が出る。
流し場の南側は、ビニール製波形トタン板が張ってあって、蛇口の上方に巾45cm、高さ32cmの切り抜き窓があり、向って右側には石油罐を切って造ったチリ取り、漬物タル、黄色のポリエチレン製の蓋付容器等が置いてある。
さらにその奥の木製台の上には、向って右側にバケツ、その上にニューム製洗桶が載せてあり、左側に乾いたカーキ色の布2片が無造作に置いてある。入口の左側には、燃料用の木片が半径1m位のほぼ半円形で30cm位の高さに雑然と置いてある。
流し場と風呂場の境のトタンの上で、入口の柱から93cm、南側の地上から1.85mの高さの位置に30ワットの裸電球がつけてあって、点灯してあった。流し場入口に向って右側の軒桁に、長さ56cmの紐のついたプルスイッチが取付けてあって、紐を引くと裸電球は消灯した。
(イ) 東側は波形トタンが張ってあって、東南隅の両樋際から北側に向って、長さ1.6m乃至1.85m位の角材、丸太、ガラス戸の枠、長さ1.54mのスレート製煙突、その他ペンキ塗りに使用したと認められる、先端に黒い刷毛のついた、長さ1.95mと3.45mの2本の竹棹等が、写真24号乃至27号に示したとおり軒下に立てかけてあって、その周囲には20cm位に伸びた雑草が生えていて、その北側に居宅へ接続した庇が85cm東方へ出ばっている。
雨樋のある南端から北方へ3.3mの位置の、地上から1.67mの高さのところに、見取図8号、写真28、29、30号に示したとおり、巾81cm、高さ36cmの窓があって、その中は便所で、窓には長さ43cm、巾3cmの木の桟が、下方は2本上方は1本の釘で打ちつけてあるが、向って右側の桟2本は抜き取ってあって、窓のガラス戸は向って左側へ開けてある。
便所の窓下の雑草の中に、窓の桟と思料される、長さ40cm位の板2枚が、写真31、32号に示した通り、東方を頂点にしてV字形に遺留してあって、先方は18cm開いていて、V字形の頂点から便所の土台迄の距離は99cmで、東方へ出ばった庇の土台迄の距離は1.05mである。
2枚の板のうち、向って右側の板は頂点側から中央部に向って鋭三角形に13cm程割れていて、割れた頂点部が僅かに着いているのみで、割れ目は白く新しかった。
板は、長さ43cm、巾3cm、厚さ8mm位で、便所の窓枠に接してみると、割れた板は向って右側の桟で、割れ目は下側に一致し、他の1枚は左側の桟で下側に打ちつけた釘1本は折れていて、折れ口は新しく光っている。
(ロ) 便所の北側に東方へ85cm出ばった、巾2.75mの周囲が板張りの庇があって、東側のほぼ中央に右へ開く、巾90cm、高さ1.76mの廻戸があって、下から1.05mの高さのところに掛金をつけ、シリンダー付南京錠がさげてあったが、鍵は締めてなく、写真33号にしめしたとおり、掛金の部分が5cm程開いていた。
廻戸を開けると、中は畳3枚大の物置で、1.5m位の角材や板その他木製の食卓2個等が雑然と入れてあって、一面に埃がついていた。( 別添見取図第5号参照 )
(ハ) 居宅の東方3.4mの位置に、間口5.7m、奥行3.6m、建坪20.5uの木造トタン葺で、周囲に波形トタンを張った物置が建ててあって、西側の巾2.7mの出入り口には雨戸はなく、入口に枠板を立てかけてあって、向って左側軒下に、南北に長さ81cm、巾41cmで90cmの高さに建築用ブロックが積重てある。
物置の中には、向って左側に古雨戸、古畳が1.5mの高さに積重てあって、その上に荷物運搬用の鉄製一輪車2台、赤く塗ってある鉄製の新しい脚立梯子2個が載せてあり、その奥にビニールの袋を被せた、灰色に塗ってある新しい大型ロッカー6個が扉を北方に向けて並べてある。
畳を積重ねた右側に、新しい波形トタン75枚が2列に立てかけてあって、その右側にビニールの袋を被せた、灰色に塗ってある新しい大型ロッカーが、扉を北方に向けて2個並べて置いてある。
ロッカーの右側には、入口にコモで包装してある竜ヶ崎市岡島金物店宛名の荷札の付いた台秤1個が、木箱の上に載せてあって、その奥に古木材ダンボール空箱、木箱等が雑然と置いてあって、木材の中に工作機械であるバイトが1台置いてある。
(ニ) 物置の北側は東西、南北とも5m位の空地で、高さ50cm乃至1m位に伸びた雑草が密生していて、その中に空箱、古材等が放置してある。
物置の北西隅に盥(たらい)の形の空罐や枠板を載せた古い4斗タル1個が置いてあって、北西隅の柱の北方1.67mで居宅東側庇の東南隅から東方2.1mの地点に、直径10cm位で高さ2.56mの物干竿を掛ける丸太が立てあって、丸太と四斗タルの間を北東方の木戸側へ2m位にわたって草を踏みつけたような跡が認められた。
空地の北側の板塀際には、向って左側から棕櫚の木1本、柳2株が植えてあり、木戸際には空箱が置いてあって木戸を開けた形跡はない。
空地の東側には柳3株が植えてあって、その外側に1.5m位の間隔をおいて高さ1.3mの丸太3本を立て、上から25cm位の間隔に4条の有刺鉄線が張ってあって出入した形跡は認められない。空地の東側は水田で、稲は刈り取ってあった。( 別添見取図第5号、写真34、35、36号参照 )
(2) 屋 内 の 模 様
玉村象天方居宅の間取りは、南側より見て向って左側が玄関、右側が勝手場で、その奥に4畳間があって、その左側は玄関である。4畳間の北側には、向って右側に廊下続きの畳2枚位の広さの屋内物置があって、左側は8畳間である。( 別添見取図第6号参照 )
踏石の上のガラス戸を開けて入ったところは、東西2.7m、南北1.24mの広さの板縁の勝手場で、写真38、39号に示したとおり、右側に鉄製の台2つが並べて置いてあって、向って左側の巾63cm、奥行36cm、高さ50cmの台の上に円筒形の石油コンロ2つが並べて載せてあって、その下の板縁にコードをつけた電気釜が蓋に埃をつけたまま置いてあり、台の中段の棚に鍋の蓋を被せたフライパン1個が置いてある。石油コンロ上方の壁にフライパン3個がさげてある。
台の前方30cmで勝手場の奥の棚の柱から、東南方21cm、押入側の波形トタンの南方6cmの位置に、底を合わせた地下足袋1足が下側の爪先を北方に向けて置いてある。向って右側の巾60cm、奥行36cm、高さ66cmの台の上に、黒く汚れた薬罐(やかん)が鉄製の鍋敷(台)の上に載せて置いてあり、その右側に台秤、手拭タオル等が載せてあって、その下の板縁に埃のついたポットコードのついた電気釜が置いてあり、台の中段の棚には、コードのついた湯沸ポット、セト製灰皿が載せてあったが、灰皿の上には一面に埃がついていて、中には薬頭の燃えたマッチの軸木やわかば(煙草)の吸殻10本が入っていたが、古い吸殻のように認められた。
台の右側前方に醤油の空瓶1本が台に立てかけたように置いてある。
勝手場の西側に、東方を向けて茶色に塗ってある2つ重ねの茶ダンスと白色に塗ってあるゼネラル冷蔵庫が並べて置いてあって、茶ダンスは巾90cm、高さ1.81m、奥行43cmで上にはダンボール空箱が整然と載せてあり、上の戸棚には茶碗、皿、コップ、茶器その他広告用マッチ等が整然と入れてある。その下の2つの引出しの中には、ビニール空袋や紙袋が1パイ入れてあり、下の戸棚の中には、茶碗、汁碗、皿、ビニールの袋入砂糖、ビニールの袋に入れた粉末ジュースその他新しい薬罐(やかん)1個等が入れてある。
茶ダンスに向って右側の前方に、写真43号に示したとおり、茄子7個の入った金網ザルが傾いて置いてあって、茄子1個はザルの南側に転げ出していた。
茶ダンスの北側に、巾49cm、高さ90cm、奥行45cmの冷蔵庫が、扉を東方に向けて置いてあるが、電源は切ってあって、中には木の箱に入った小魚の佃煮が入っているのみであった。冷蔵庫の上には、写真44号に示したとおり、水が半分位入った薬罐(やかん)、シャジの入った飯茶碗、空の湯飲茶碗各1個、汚れた手拭1本、その他白い布片等が載せてある。
勝手場出入口に向って左側へ閉める内側のガラス戸の右框には、敷居から63cmの高さのところに捻締錠がついている。
(2) 居宅内物置の模様
勝手場北側の4畳間の東方にある、巾73cmの右へ開くクモリガラス8枚の入った廻戸を開くと、北側へ通ずる廊下で、左側は布団を入れた押入になっているが、仕切はなくカーテンを引いてある。
押入を背にして本箱が置いてあって、その上に引出しのついた緑色に塗った小箱が載せてあり、その北側に大工道具を入れた長方形の道具箱5つが重ねて置いてあり、右側は床から1.75mの高さの横桟に釘を打ちつけて、手拭い3本と黒い洋傘が2本がかけてある。
廊下の北側のクモリガラスの入った、左へ開く巾78cmのガラス戸を開けると、中は畳2枚の広さの物置で、北側と東側に床から55cmの高さの位置に巾1.22mの窓があって、クモリガラスの入った巾62.5cmのガラス戸2枚を閉め、捻締錠が締めてあった。
物置の西側には、小引出しのついた整理箱、木製の食卓等が置いてあり、北側の窓際に位牌、黒塗りの椀等の入った木箱が置いてあって、窓の外側は板塀である。
東側窓際にロープ、針金、ハンマー等の入った木箱、豆の入った石油罐等が置いてあり、窓の外側は庇の物置である。箱と箱の間には、釘を入れた小箱、角ノミの入った箱、ドライミルクの空罐等が雑然と置いてあって、一面に埃で汚れたいた。
物置へ通ずる廊下の入口の東側に、巾60cm、高さ1.73mの右へ開く廻戸があって、床から76.5cmの高さの位置の横桟は締めてあった。廻戸の東側に巾17.5cm、高さ28cmの切抜窓があって、上框に10ワットの電球がついている。
便所の中は、東西83cm、南北86cmの広さで、ほぼ中央に前方を東方に向けて、白色の便器が据付けてあって、東南隅に八つ切り大の新聞紙若干が置いてあって、便器の内側前方に切った新聞紙3枚がついていた。
北側と西側は、高さ95cmの腰板が張ってあって、その上は白壁である。
東側は、高さ95cmの腰板、厚さ4cmの框の上に巾81cm、高さ36cmの窓があって、巾41.1cmのガラス戸2枚は向って右側へ開けてあって、内側の1枚は左右に動くが、外側の戸は動かない。窓の内側上方は白壁で、蜘蛛の巣がさがっていた。( 別添見取図第9号、写真41、42号参照 )
(4) 4畳間の模様
勝手場の北側は、南北に畳4枚を敷いた4畳間で、勝手場との間に仕切はない。
東側に向って右側に2段に区切ってある巾82cmの押入があって、下段には右側から胡麻油のレッテルの貼ってある一斗罐、その上に黄色のポリエチレン製容器が載せてあり、その左側に蓋付きの緑色ポリエチレン製容器、その上に金網のザルの上に小型の釜を載せ、アルマイト製洗桶を被せてあって、ザルの中には鶏卵3個が入っている。
左側の壁際に醤油、食酢、ビール等の空罐が整然と並べてある。
上段はさらに2段に区切ってあって、下側の右から飯びつ、食酢の入った瓶、砂糖少量の入っている角形の広口瓶、弁当箱を包んだ濃い緑色風呂敷、ドライミルクの空罐その他紙袋等が入れてあり、上側には右から月桂冠の空瓶、アルマイト製鍋、摺り鉢、茶筒茶器を載せた丸盆等が置いてあり、盆の上の急須の中は空である。( 別添写真40号参照 )
押入の北側は便所の入口で、上方には巾40cm、高さ30cm位の乾電池付掛時計がさげてあって、針は動いていた。
向って右側の押入際には、新聞紙が1.48m位の高さに2列に重ねてあって、その奥の押入と境の柱の床より1.43mの高さのところにコンセントが取りつけてあって、緑色コードのキャップが差込んである。( 別添写真41号参照 )
物置へ通ずる廊下の入口のガラス戸の西側は、巾80cmの白壁で、向って右側柱の西方10cmで畳から79cmの高さの位置に、巾16cm、高さ24cmの小窓があって、内側に板が張ってあって、窓の中にガラス製アルコールランプが載せてある。
壁の前方畳の上に巾33.2cmの細いベニヤ板1枚が東西に敷いてあって、壁のほぼ中央の前方にパイプ椅子が1脚背部を壁の方にして、背部の脚をベニヤ板の上に載せて置いてあり、壁に向って右側柱の畳から1.74mの高さの釘に赤い細い線の入ったタオル1本が掛けてあり、さらに左側柱の畳から1.75mの高さの釘に手拭が1本掛けてある。( 別添写真43号参照 )
西側の2枚の畳の上には、8畳間と仕切りのクモリガラス8枚の入った腰板付のガラス戸2枚が上框を南側に、下框を北方に向けて上框の方を開いて倒れていて、東側へ倒れたガラス戸の下に扇風機1台が、上部を南側に羽を上方に向けて倒れていて、扇風機の接触している部分のガラス1枚と上方のガラス2枚は割れて、畳やベニヤ板の上に破片が散乱していた。
割れたガラス戸の東南側に、赤い電球のついた高さ1.3mの赤外灯スタンドが立てあり、扇風機と赤外灯スタンドのコードは、緑色コードのダブルコンセントに差し込んであった。
倒れたガラス戸の南側の下に、蓋付の空の丼、黒塗りの汁椀、アルマイト製汲み、黒の箸1人分を載せた黒塗りの角盆と空の漬物容器が置いてある。( 別添写真46、47、48号参照 )
西方のガラス戸は、4畳間の西南隅の古い麦藁帽子の載せてある電気ミシンの西側に立てかけるような形で上框側を西南方に向けて倒れていて、上部の下側になったガラス1枚は割れていた。
倒れた2枚のガラス戸の間で、ミシンの北側に木の箱に入れた空の釜が置いてあって、蓋は写真48号に示したとおり、北側から釜に立てかけたように落ちていて、ガラス戸の西側に黒い縁の眼鏡の左側弦を広げて無雑作に放置されていた。( 別添写真51号参照 )
ミシンへ立てかけるように倒れたガラス戸の下框は、写真51号に示したとおり、8畳間と境の敷居の上に2cm程のっていて、4畳間の西北隅の柱までの距離は66.5cmで、東側に倒れたガラス戸の下框までの距離は13cmである。
4畳間の東から2枚目の畳の東端から壁際に、西方へ向けて敷いてあるベニヤ板は巾33.2cm、長さ1.825mで、西側端は東側から4枚目の畳の東側に5cm、8畳間と境の敷居の上に2cm程のっていて、東側へ倒れたガラス戸の下框はベニヤ板の西側端に触れていて、板の上や扇風機の周囲にはガラスの破片が散乱していた。
玄関の上り口の柱の東方8cmの位置に置いてある電気ミシンは、巾57cm、奥行45.5cm、高さ77.5cmで、扉のある前方を北側に向けてあって、その東方6cm離れたところに丼等を載せてある黒塗りの角盆の1辺の長さは31.5cmの正方形で、さらにミシンの北側に置いてある釜を入れた箱の1辺の長さは30cmの正方形で、8畳間と境の敷居までの距離は1.02mである。
釜の周囲とミシンの西側の板縁の上に割れたガラスの破片が散乱していて、畳の西側端に放置してあった黒縁の眼鏡から8畳間と境の敷居までの距離は49cmである。眼鏡は近眼鏡と思料される。( 別添写真89、90、91号参照 )
8畳間と境の上側敷居のほぼ中央で、畳から1.77mの高さの釘に手拭が1本さげてあり、東側から数えて3枚目の畳の上方1.83mの高さのところに、西南方から北東方に斜に20ワットの棒形蛍光灯が鎖で吊ってあって点灯してあり、ほぼ中央からさげてある長さ12cmの点滅用の紐を引くと消灯した。( 別添写真93号参照 )
4畳間の西側で、玄関を入った正面の畳2枚大の広さの板縁の北側に巾87.5cm、奥行38cm、高さ1.79mの鼠色に塗ってあるロッカー2個が扉を南に向けて並べて置いてあり、前方に写真92号に示したとおり、東側から黒く変色した野菜の煮物の入っている鍋、三ツ矢サイダー2本の入っているフロトントーフと書いてあるダンボール箱、トーモロコシの粒の入っている木箱、釘の入ったダンボール箱、電気カンナの入った木箱、大工道具の入った木箱、ダンボール空箱等が置いてあって、その西側に釘の入った巾20cm、長さ21cm、高さ9cmの木箱8個を2列に重ね、上に空箱を被せ、その上に木箱に入った電気アイロン、薄鼠色ズボンを薄茶色の風呂敷に包んで置いてあり、その南側に茶色のズボンが折りたたんで置いてある。
さらにその南側に巾17cm、長さ45cm、高さ35cmの釘の入った木箱3個が並べて置いてあり、西側板壁の際に縞模様茶色の風呂敷を被せた箱の上に丸鋸の入ったダンボール箱、マツダ赤外灯スタンドの空箱が載せてあり、その左側に黒と茶色の縞の布を被せた箱の上に、電気ドリルの入ったダンボール箱、その上に木製踏台が載せてある。
布を取除くと、巾47.5cm、奥行40cm、高さ39cmの濃緑に塗ってある小型金庫2個が、扉を東方に向けて並べて置いてあり、前方の釘箱を移動しなければ扉は開かない。
2つ並べてあるロッカーを鍵を使って扉を開けると、内部は5段に区切ってあって、見取図10号に示したように、上段に湯沸器、アンカ、ドライヤー、その他空箱等が入れてあり、2段目には革鞄、箱詰の砂糖、東芝照明ランプ、箱詰の洗剤、片手鍋等が入れてある。
3段目はビニールの袋入毛布1枚、4段目はビニールの袋入毛布、箱に入ったセイコー製置時計等が入れてあって、5段目にはビニールの袋入毛布1枚と箱に入った洋皿を入れてある。
左側のロッカーには、上から2段目に箱入の風呂敷1枚、3段目にビニール袋に入った毛布1枚入れてあるのみであった。
西側の板壁際でロッカーの南方31cmの位置に、扉を東側に向けて2個並べてある金庫の右側へ開く扉を鍵を使用して開くと、見取り図11号に示したとおり、向って右側の金庫の中は、2列3段に区切った箱が入っていて、左側上段に1万円札1枚、中段は空で、下段には京北会名簿、ビニール袋入写真30枚、バラの写真8枚が入っていた。
右側の上段には、玉村象天名義の郵便貯金通帳1冊、常陽銀行布川支店の普通預金通帳1冊、中段には封書1通、下段にはセイコー製金色側金色鎖バンド付男物腕時計1個、クローム側クローム鎖バンド付男物腕時計1個、その他象天と彫ってある角印2個が入っていた。左側金庫は空である。
(6) 玄関の模様
板縁の南側は、巾3.57m、奥行1.24mのコンクリート土間の玄関で、出入口には巾88.5cmのガラス戸2枚が閉めてあって、南側へ向って左へ閉めた戸の右横框には、敷居から94cmの高さの位置に、捻締錠が締めてあり、左側横框の内側に四つ折に折った8月29日付朝日新聞の夕刊が落ちていた。
出入口に向って右側に、ビニール波形トタン、中古ガラス戸、ベニヤ板等が西側壁に立てかけてあり、その東側に鉄のボートの入った木箱2個、ジャッキ1個等が置いてあり、板縁の上り口に直径63cmと42cmの2巻の包装してある針金が立てかけてあって、その東側にビニールサンダル2足とゴム長靴1足が爪先を北方に向けて並べて脱いである。
出入口の東側には、フジ号軽快自転車1台がハンドルを東方に向けてスタンドを立てあって、その南側に日立の5馬力3相モーター、セト火鉢、富士電機の400ボルト単層モーター各1個、エンピツ10丁、木の空箱、ロープ等が雑然と置いてあり、東北隅にナショナル脱水洗濯機がビニールの袋を被せて置いてあり、その上に鉄製テーブル1脚、その前方に鉄製テーブル2脚が重ねて置いてある等、玄関は各種建築材料、器具置場として使用していて、出入口としている形跡は認められない。( 別添写真94、95、96号参照 )
(7) 8畳間の模様
4畳間の北側は、東西3.56m、南北3.55mの広さの8畳間で、黒の縫取線3本が東西に入っている縫継ぎのウスベリが敷いてあって、東南隅に丸めた緑色の蚊帳、格子模様の敷布団、緑色毛布、黒革のバンドを通してあるカーキー色ズボン、カーキー色作業着等が、さらに座敷の西方には掛布団、中央部にはラクダ色メリヤスシャツ、股引等が雑然と投げ出してあって、東南隅の畳は頂点を下にした三角形に落ち窪んでいて、被害者玉村象天は、頭部を東北方に、足を西南方に向けて死亡していて、腐敗のため悪臭を発散していた。( 別添見取図第6号、13号参照 )
(イ) 南側に向って左側には、クモリガラス8枚の入った腰板付ガラス戸2枚が閉めてあったと認められるが、南側の4畳間に2枚とも倒れている。向って右側は白壁で、壁際に巾51.5cm、奥行38cm、高さ87.5cmのロッカーの上に巾37cm、奥行27cm、高さ53cmのロッカーが重ねて置いてあり、ロッカーの巾32.5cm、高さ48cmの扉は右側に開いていて、外側の下から24cmの位置の鍵穴に、汚れた白色ゴムテープに通した鍵が差し込んであり、ゴムテープには他の鍵9個が通してある。
ロッカーの右側に巾1.04m、奥行74cm、高さ74cmの机が置いてあって、その上に紺色の布袋を被せたテレビが載せてあり、投げ出された掛布団は、机の左前方の脚に達していた。( 別添写真66、69号参照 )
扉を開けてあったロッカーの中は、写真69号に示したとおり2段に区切ってあって、物色したものと認められ、下側には石けんの入った箱、鎮静剤メンフラ、サンスター練歯磨、洗剤ライポン等が雑然と入れてあり、その前方にメンソレタム容器等が転っている。
上段には、箱入れのホーサン、洗剤クレンザー、コゴメ目薬、メンソレタム、その他使用していないノート、2つ折にした商店の広告等が雑然と入れてあり、ロッカーの上には空のボール箱、その上に四つ折にした新聞紙若干が載せてあり、右脇にクレゾールとヘアスプレー容器が置いてある。
下側ロッカーは、扉が1cm程隙きていて、巾51.5cm、高さ79.5cmの扉を右側へ開くと、写真70号に示したとおり、中は3段に区切ってあって、下段には右側に原稿用紙、便箋、雑誌婦人世界、ちり紙等が、左側に世界の翼、世界の自転車、世界の鉄道等の本が重ねてあり、その間に封筒、ハガキ、年賀状等が入っている。
中段の右側に、広告の裏へ書いたメモ、半紙半分大に切った広告、封書、千円の収入証紙を入れた箱等が置いてあり、左側に朝日科学、世界の舟、世界の自動車等の本が積み重ねてあり、メモの間に常陽銀行名入の袋に入った10万円の定期預金証書1通が入っていて、メモの奥の下側に暫く放置されていたと思料される黒革バンドの付いた金色角形の婦人用腕時計1個が入っていた。
上段の右側に巾14.6cm、厚さ4.5cm、高さ9cmの黒皮製サックに入ったトランジスターラジオ1個、巾25cm、高さ15cmのチャック付茶色皮鞄1個が入っていて、その左側に新聞紙等の切り抜きを貼ったスクラップが10cm位の高さに重ねてあって、その上に広告の裏へ書いたメモノート、鼠色ビニール二つ折財布が雑然と入れてある。
チャック付皮鞄の中には、貸金証書、領収書、簡易保険領収書、生命保険証書等が入っていた。
ロッカーの左側で4畳間と境の柱には、畳から1.07mの高さの位置にキャップ2つを差込める白色のコンセントが取りつけてあって、上部には長さ84cmのチョコレート色のコードのキャップが差込んであって、コードの先端には60ワットの電球をつけ、畳から1.73mの高さの釘にかけてあり、その上方31cmの高さの柱に塩原の山水の額がかけてある。
ロッカーの前方には、写真66号に示したとおり、格子模様掛布団1枚が投げ出してあって、その上に封書、髪の素の瓶、5円硬貨が散乱している。ロッカーの右側の机の上のテレビは、巾72cm、奥行37cm、高さ42cmで、上には四つ折に畳んだ新聞紙若干が雑然と載せてあって、その上に埃のついた紺色作業帽3個が載せてある。
テレビにはアンテナへ接続したコードは無く、使用していなかったものと認められる。
机の上には、写真71、72号に示したとおり、ミス東京石けん、ルピアン石けんの空箱、腕時計の空箱、包装紙に包んである石けん、チョコレート色模様付の皮製二つ折り財布、鉛筆削機、広告の裏へ書いたメモ、竹製物差し、安全カミソリの刃等が雑然と放置してあり、テレビの右側に本3冊が重ねてある。
机の大引出しは9.5cm、右側袖の4つの引出しは、上から7cm、8cm、6.5cm、14.5cmとそれぞれ引出して物色したものと認められ、大きい引出しの中には、特許関係メモ、赤外線保護眼鏡の入ったサック、ハガキ、封書、納品書、領収書、製図用具、鉛筆等が雑然と入っており、袖の上の引出しには、使用していないノート1冊、ロッカーの鍵、金庫の鍵、広告の裏へ書いたメモ、鉛筆等が、2番目の引出しには、便箋、広告の裏へ書いたメモ、領収用紙等が何れも雑然と入れてあり、3番目の引出しには、半紙半分大に切った広告が引出し半分位入っていて、その下の引出しには、半紙半分位の大きさに切った新聞紙若干が入れてある。
机の下には、トースター、袋に入った新しい朝日ゴム長靴、板に巻いたビニールコード、ロープ、箱に入ったチョコレート色の古い皮短靴、電気コテ、コンゴー砥石等が雑然と押込んであって、上面には一面に埃がついていた。
机に向って左側脚の前方9cmのところに、サンヨー15ワットの蛍光灯スタンド、さらにその前方に、緑色に塗ってある東芝モスキットが置いてあって、蛍光灯スタンドのコードのキャップはロッカー脇の柱のコンセントに差込んであった。
机の前方の厚紙の上に、妙術秘法大書と書いてある本外3冊が無雑作に重ねて置いてあり、その前方に直径1m位の円形内の畳および布団の上等に5円硬貨11枚が散乱している。
(ロ) 県道に面した西側に、畳から53cmの高さのところに巾1.2m、高さ1.24mの窓が2つあって、それぞれ巾62.5cmでクモリガラスの入ったガラス戸2枚を閉め、捻締錠が締めてあって、その上にクモリガラス4枚の入った、巾1.2m、高さ37cmの回転窓が閉めてあって、上から蔦模様のカーテンが引いてある。
西側の窓に向って左側の柱から右側へ1.57mの位置に、写真73、74号に示したとおり、巾89cm、奥行59cm、高さ72cmのテーブルが置いてあって、上には東芝マッサージ機、模型飛行機、インク瓶、ノート、広告の裏に書いたメモ、新聞紙等が雑然と載せてあり、テーブルの下の棚にビニールホースが丸めて押込んであり、向って左側にパイプ椅子が西方を背にして置いてあって、その上にビニールホースが丸めて載せてあり、椅子の下に竹製屑篭2つ、その左側にダンボール空箱2つが重ねて置いてあり、テーブルの右側にパイプ椅子1脚が北方を背にして押込んである。
テーブルの前方、天井から南北に棒形の20ワットの蛍光灯が鎖で吊って点灯してあって、畳の上から1.8mの高さに下っている長さ50cmの点滅用紐を引くと消灯した。
西面中央の柱には、畳から1.22mの高さの位置に、巾20cm、高さ30cmの鏡がさげてあり、その上に越中屋油店のカレンダー、鏡の下に巾4cm、長さ22cmの青色に塗ってある温度計がさげてあり、鏡の左側窓の額縁の釘に、紺色作業帽がかけてある。
(ハ) 北側には、向って左側から桐タンス、洋服タンス、整理ダンスと3つのタンスが南側を向けて置いてあり、タンスの北側に巾1.2m、高さ1.24mの窓が2あって、クモリガラスの入ったガラス戸を閉めてあり、その上にガラス4枚の入った回転窓があって、窓の上から木の葉模様のカーテンが閉めてある。
桐タンスは、巾93.7cm、高さ1.52m、奥行42cmの2つ重ねで、写真75、76号に示したとおり、前方には折畳み式食卓2個、ベニヤ板3枚、襖1枚が立てかけてあって、上にはナショナルテレビの空箱、洋服の空箱外4つの空箱が載せてある。
タンスの上側の2枚開きの扉を開けると、6個の引出しがあって、上の引出しには男物3枚、女物3枚の新しいタオルの寝巻が入れてあり、2番目の引出しには、女物の袷の着物1枚、羽織1枚、その他シャツ等が入れてあり、3番目の引出しには、霜降ジャンバー、鼠色の新品作業衣上下、カーディガン、4番目の引出しには、カーキ色作業ズボン、伊勢平名入のカーキー色作業衣1枚、その他1円硬貨58枚、金色指輪1個等が、5番目の引出しには、白色布団カバー3枚、柄ものの敷布1枚、箱入のタオル、6番目の引出しには、ビニール袋入毛布1枚、ビニールの袋入敷布3枚等が入っている。
下側の3つの引出のうち、上の引出しには女物紫色半コート、女物ウールの着物、女物袷の着物、女物羽織各1枚、新品の黄色メリヤスシャツ4枚、白メリヤス股引1本等が、2番目の引出しには、黒色オーバー、茶色皮ジャンバー各1枚、女物はおり2枚、茶色背広副上下等が、3番目の引出しには、新しい男物白色パンテー4枚、スポンジ枕2個、枕カバー4枚等が整然と入れてあり、女物衣類も暫く前から入れてあったものと思料される。
洋服タンスは、巾1.02m、奥行56cm、高さ1.76mの2つ重ねで、上は両側へ開く扉がついていて、下には引出し2つついているが、前方28cmのところに足踏ミシンがテーブルを開いて置いてあって、右側の扉は開かない。
左側扉の前方47cmのところに、パイプ椅子が背部を北方にして1脚置いてあって、背部の右側脚のところに5円硬貨1枚、さらにその東方12cmのところに半銭硬貨1枚が落ちていた。
ミシンの開いたテーブルの下には、コロナ反射式の石油ストーブが箱に入れて置いてあって、踏板の上に緑色座椅子4個が折畳んで押込んであって、その右側にナショナル掃除機が立てかけてあり、ミシンの上にはゴム雨カッパ、ビニールズボン、デコラの見本、その他ゴム手袋、皮手袋各1双が雑然と載せてあって、一面に埃がついていた。
洋服タンスの上には、布製の旅行鞄に入っている洋服箱、その右側に針金製鼠取器が載せてあり、扉を開くと中には玉村のネーム入りの背広服上下4着、オーバー2着、ネームの入っていない背広服上下1着、オーバー1着、白色ワイシャツ等がそれぞれハンガーにかけてあり、扉の内側にネクタイ8本がかけてある。
下側には、女物木綿の単衣1枚、虫除けのモスノー1袋、パラゾール2袋等が整然と入れてある。向って左側の小引出しには、チョコレート色革鞄、三脚入れ黒皮ケース、箱入風呂敷1枚等が入れてある。
その下の大きい引出しには、新しいカシミロン長袖シャツ、白ラクラン形毛糸シャツ、白開襟シャツ各1枚、その他靴下、ジャンバー、ワイシャツ等が、その下の引出しに縞の袴、男物夏羽織各2枚、男物の袷の着物、羽織各1枚、黒ズボン、兵児帯等が整然と入れてある。
整理ダンスは、巾86.5cm、奥行43.5cm、高さ1.17mで、上に小引出し2つが並べてあって、その下に大きい引出し5つがある。
タンスの上には、日立電気コタツ、サンヨー電気ストーブ、コタツへ載せるサンヨーテーブル等が載せてあり、向って左側の小引出しには、白の敷布2枚、その他タオル、ハンカチ等が、右側の小引出しには、古靴下、ズボン吊り、白足袋等が雑然と入れてある。
大きい引出しの上から1番目には、古布団皮2枚分、商店名入りの手拭77本、タオル15本等、2番目の引出しには、空色タオルケット、港屋材木店名入りのシャツ、その他マフラー、ワイシャツ、黒色足袋等、3番目の引出しには、格子模様浴衣、鼠色毛糸のセイター、布団カバー、影山材木店名入りの黒ジャンバー、男物羽織各1枚。
4番目の引出しには、格子模様に祭と染抜いてある新しい浴衣6枚、ネルの格子模様寝巻1枚等が、5番目の引出しには、白色布団カバー1枚、晒の肌着4枚、白パンツ5枚、白ステテコ3枚等が何れも整然と入れてある。
(ニ) 東側に向って左側端しに、クモリガラスの入った右側へ開く巾76cmの廻戸があって、その右側に2つ重ねの茶ダンスが置いてあって、その右側に戸のない押入がある。
廻戸の前方には、折畳式パイプ椅子3脚、蓋を赤く塗ってあるアルマイト製鍋3個、ドライミルク空罐4個等が置いてあって戸は動かない。
廻戸の上方には、棚が造ってあって、洋服の空箱、石油コンロの空箱等が整然と重ねて載せてある。
廻戸の右側の壁際に巾76cm、奥行30cm、高さ1.52mの2つ重ねの茶ダンスが西方を向けて置いてあって、上には埃のついた新聞紙で包んである空箱等が載せてあり、上側のガラス戸の中には、花かつお4箱、パイナップル罐詰4個、罐に入ったココア3罐、その他カニ罐、コーヒー茶碗等。
その下の戸棚には、角砂糖2箱、洋かん22本、花かつお5箱、その他茶碗等。下側の木の戸を開けると、中には茶器、セトモノ類、その他空瓶等が何れも整然と入れてある。( 別添写真77号参照 )
茶ダンスの置いてある右側は、巾1.73m、高さ1.73mで2段に区切ってある押入で、写真79号に示したとおり、東側(裏側)には仕切はなくカーテンがさげてあって、前方には戸はなく、薄茶色の生地に花模様のカーテンを針金で吊ってあるが、針金は弛るんでいて押入の上側敷居から23cmさがっていて、カーテンはほぼ中央に25cm位の巾に寄せてあって、向って右側に白ワイシャツが2つに折ってかけてあり、押入の上段に入れてある布団には白色敷布1枚を広げて横にかけ、その上に茶色カーペットやビニール製の果物の下敷が載せてあって、上段には、左側から白のカバーを被せ、四つ折に畳んだ掛布団2枚と三つ折に畳んだ赤と紫色の格子模様敷布団3枚が整然と入れてあり、右側には紫色の花模様掛布団1枚と薄黄色の夏掛布団2枚が四つ折に畳んで入れてあり、その下に新しい赤い女物掻巻1枚が畳んで入れてあったが、使用したものではないように認められた。
下段には、左側に格子模様座布団18枚が、左側8枚と右側10枚の2段に重ねてあって、その前方にボール箱に入れたアート編機1台が置いてある。右側には、鼠色布製ジャンバー1枚、ラクダ色メリヤスシャツ4枚、同股引2本、白パンツ2枚、ビニールカーペット1枚、その他男物帯、下着等を包んだ茶色の縞模様風呂敷包1個、枕2個等が雑然と押込んであって、その下に茶色と黒の格子模様掛布団1枚が四つ折に畳んで入れてある。
押入の前方で、下側の敷居から1.78mの高さのところに、巾19.5cm、長さ1.82mの板を打ちつけた神棚があって、写真79号に示したとおり、向って左側に丸型の電灯の笠が載せてあって、その右側に布川神社のお札数枚が供えてある。
棚の右端には、下から帽子の入った木箱、ワイシャツの入ったボール箱、さらにその上に帽子の入った楕円形のボール箱2つが重ねて載せてあって、箱には一面に埃がついていた。
神棚の下側のほぼ中央の釘に、巾16cm、長さ35cm位の日蓮宗の掛軸と黒色の数珠1個がさげてある。( 別添見取図12号参照 )
(3) 被 害 の 模 様
(1) 死体の模様
(イ) 8畳間の東南隅で、押入のほぼ中央前方の巾広のV字形に落ち窪んだ畳の上に、被害者の玉村象天が木綿の半袖シャツ、カーキー色ズボン、緑色地に濃い黄色の縞模様靴下をはいて、頭部を北東方に足を逆くの字形に曲げて西南方に向け、左側を下にして、体を東南方に横に向けて死亡していて、写真53、54、55号に示したとおり、右腰の上にチョコレート色地に黄色の格子模様敷布団の一端を折り曲げ、三角形の頂点が背部になるような形で無雑作に載せてあり、右肩の上には背部から白開襟シャツがかけてある。
頭部には、東方から蓋の飛んでいる菓子の入った罐が立てかけたように倒れかかっていて、蓋は写真49号に示したように、罐の南方67cmのところで押入に向って右側柱際の敷布団に立てかけたように飛んでいた。菓子罐は、1辺の長さ24cm、高さ35cmである。
さらに、頭部の北方から菓子罐が斜に傾いていて、その上にライオンクレンザーのダンボール箱の一部が載っていて、菓子罐には北側からパオンのダンボール箱、その上に赤い円筒形の罐が寄りかかっていて、罐の上からカーキー色ズボンが前方にさがっている。
クレンザーの箱は、巾33cm、長さ48cm、高さ17.5cmで、中には新聞紙を切ったもの若干が入っていて、パオンの箱は、巾28cm、長さ36.5cm、高さ18cmで、中には森永ドライミルク3罐が入っており、円筒形の罐は、直径22cm、高さ16cmで、中にザラメ(砂糖)が6分目位入っている。
死体の前方で、8畳間の東南隅の敷布団の下に、写真59、60号に示したように、緑色の蚊帳と緑色地に白の模様の入った毛布が投げ出したように置いてあって、毛布の一部は左肩の下に入っていた。
膝の前方には、黒皮バンドを通してあるカーキー色ズボンが出ていて、ズボンの裾は死体の左下腹部の下から後方に出ていて、さらに別のカーキー色ズボンの裾が左腹部の下から後方に出ていた。死体の尻の部分には、薄茶色と黄色の模様つきの毛布、ラクダ色メリヤスシャツ、白色敷布等が北西方に長く伸ばしてあって、その先端で8畳間のほぼ中央にラクダ色メリヤスシャツ、同猿股、カーキー色ジャンバー、白開襟シャツ、白パンツ等が投げ出したように散乱していて、死者の踵から西北方25cmのところから小型ロッカーの前方に、チョコレート色地に黄色の格子模様掛布団1枚が無雑作に放置してあって、8畳間の衣類等の散乱の状況および4畳間へ倒れたガラス戸の状況等から、被害者玉村象天は相当抵抗したものと思料される。
死者の頭部は、押入に向って左側柱から69cmの位置に顔面を東南方に向けていて、押入の敷居から頭の上部までは22cmで、写真61、62号に示したとおり、右肘は曲げて顔の下に向けていて、肘から押入の敷居までは17cmで、押入の右側柱までは68cmである。さらに8畳間の南側中央の柱から上になっている右踵までは51cmで、下になっている左踵までは58cmである。
4畳間の境の敷居から右足の爪先までは9.5cmで、さらに左膝から敷居までの距離は39cmである。( 別添写真64、65号参照 )
(ロ) 死者の身長は1.54m位で、頭髪は伸ばしており、写真97号に示したとおり、左肩および腰部は着衣が赤褐色に濡れていて、腐敗のため全身膨満し、皮膚は濃い青銅色を呈し、口には血痕で赤褐色に濡れている木綿パンツが半分位押込んであり、前頸部には白木綿パンツが巻いてあって、右側は耳の下に達していて、死因は窒息死と思料される。( 別添写真98号参照 )
左右の足は逆くの字形に曲げていて、ズボンの右脇ポケットに、写真99号に示したとおり、明治ゆであづき罐詰1個とその下側に折畳んだ手拭1本が入れてあって、右後のポケットに四つ折に折った100円紙幣1枚が入れてあり、さらに左脇のポケットに折畳んだ白ハンカチ1枚が入っていた。
足首には、写真100、101号に示したとおり、黒い斑点のついている白ワイシャツを1巻き巻いて、こま結びに結んであり、その下に長さ1.05mのタオルを2巻き巻いて、一重結びに結んである。
(ハ) 死体は、原因を究明するため、
竜ヶ崎簡易裁判所
裁 判 官 河 野 道 雄
の鑑定処分許可状を得て、
秦 病 院 長
医 師 秦 資 宣
に鑑定を嘱託した。
(ニ) 死体を取り除くと、写真81号に示したとおり、顔面の下には、畳の東端から6cmのところに8月28日付朝日新聞の夕刊が四つ折りにして置いてあったが、血痕ようの附着物で一面に赤褐色に濡れていて、その西南方に赤褐色に濡れたウチワが3分の1位新聞紙の下から出ていた。
濡れた新聞紙の西南方13cmのところに、長方形に折った紙片2枚、その西方に緑色の縞模様靴下1足が放置してあり、北東方32cmの床下に四つ折にした8月28日付朝日新聞の朝刊が落ちていて、その上に畳の間から出たと思われるゴミが落ちていた。
顔面の位置の血痕で濡れた新聞紙を取除くと、ウスベリの上は、東西49cm、南北33cm位の不正形な楕円形に血痕が附着して濡れていた。
ウスベリの下には、一面にゴミのついた畳が敷いてあって、死体のあった位置の床は落ちて、畳は巾広のV字形に落ち窪んでいて、押入の敷居から頂点までの距離は42cmで、押入に向って左側で、東西に3本入っている黒い縫継線の真中の線は、写真56号に示したとおり、押入の左側柱際から西方へ43cm位破けており、向って右側は写真82号に示したとおり、押入の右側柱から畳は14cm離れていた。
押入の南西隅の床下には、写真82号に示したとおり長方形の木箱が認められ、押入の南側下段の布団等を取りかたづけてみると、押入の南側壁から北方へ8cmで、押入の敷居から東方へ15cmのところに、長さ5cmの鍵1個が上部を北方に向けて置いてある。
その鍵は、8畳間に2つ重ねてあったロッカーのうち、上側のロッカーの鍵に合致した。
床下へ取りつけた箱の上部の板は打ちつけてなく、巾15cmの板2枚を取りはずしてみると、その下に内側が東西29.5cm、南北35cm、深さ18.5cmの木箱が、根太に打つけてあったが、中は空である。
箱の位置は、押入の敷居の東方8cmのところである。( 別添写真82、83、84号参照 )
落ち窪んだ畳を取り除くと、南北に張ってある長さ1.78mの床板は、押入側から西方へ1.37mにわたって7枚が、ほぼ中央から不正形に割れていて、床板を取りはずすと、押入の前方の1辺が4.5cmのタルキを使用した根太掛は、向って左側から80cm、13cm、15cm、71cmと4つに折れ、根太掛の南端と北側は僅かに大曳についていた。
さらに押入の西方83cmの位置の丸太を2つ割りした大曳は、1.09mと69cmの2つに折れて、折れ口は垂れ下がっていた。( 別添見取図13号、写真85号乃至88号参照 )
(ホ) 4畳間に倒れていたガラス戸2枚は、巾82cm、高さ1.73mで、8畳間と境の真鍮のレールを打ちつけてある敷居へはめこんで動かしてみると、カラカラと音をたてて軽く開閉し、横框の上部を押しては戸は容易にはずれないが、下部を押すと戸は簡単にはずれた。
(2) 金品物色の状況
8畳間の南側に2つ重ねて置いてあるロッカーは、扉は開いていて内部は雑然としており、机の引出しは何れも引出してあって、前方には5円硬貨11枚と封書等が散乱していたので、ロッカーおよび机の引出しは物色したものと認められる。
さらに北側に、南向きに並べて置いてあった3つのタンスのうち、洋服タンスの前方に5円硬貨1枚、半銭硬貨1枚が落ちていて、洋服タンスおよび桐タンスは鍵締もなかったので物色したものと思料されるが、被害者は独身のため被害金品については判然としない。
立会人玉村明は、被害者の玉村象天は布製の三つ折にした財布を持っていた筈だが、見当たらないので被害にかかったものと思われるが、財布の内容品についてはわからないという。
(3) 侵入口および逃走口
現場である玉村象天方居宅の南側にある勝手場の出入口と、東側にある便所の窓以外のところは、何れも鍵が締めてあり、勝手場の出入口の戸は鍵が締めてなかったが、西側の県道から見通せるところにあり、便所の窓は、5本の桟のうち2本がはずれていて、ガラス戸は南側へ開けてあったが、窓は地上から1.67mの高さのところにあって、台を使用した形跡も窓枠を擦った形跡も認められないので、侵入口としては不自然で、何れが侵入口で何れが逃走口か判然とはしない。
4.証 拠 資 料
(1) 物 件
(1) 次の物件は、玉村象天の着衣および着衣の中に入っていた物等で、立会人玉村明が任意に提出したので、別紙領置調書のとおり領置した。
着 衣
(1) 白半袖シャツ 1枚
(2) カーキー色ズボン 1本
(3) 茶色皮バンド 1本
(4) ラクダ色メリヤスサルマタ 1枚
(5) 緑色地に黄色の縞模様靴下 1足口中に押込んであったもの
(6) 白木綿バンツ 1枚
頸部に巻いてあったもの
(7) 白木綿バンツ 1枚
足首を縛ったもの
(8) 白ワイシャツ 1枚
(9) タオル 1枚ズボンのポケットの中のもの
(10) 明治ゆであづき罐詰 1個
(11) 手 拭 1枚
(12) 100円紙幣 1枚
(13) 白いハンカチ 1枚そ の 他
(14) 便所の窓の桟 2枚
(2) 次の物件は、立会人玉村明が任意に提出したので、別紙領置調書記載のとおり領置した。
勝手場入口
(1) ビニール製サンダル 1足
(2) マッチの軸木 10本勝 手 場
(3) 地下足袋 1足
(4) 灰 皿 1個
(5) マッチの軸木 24本
(6) タバコの吸殻 10本4 畳 間
(7) 毛 髪 8本
(8) 眼 鏡 1個8 畳 間
(9) チョコレート色と黄色の格子模様敷布団 1枚
(10) 緑色蚊帳 1吊
(11) 緑色地に白の模様付毛布 1枚
(12) カーキー色ズボン 1本
(13) 黒皮バンド 1本
(14) 茶色縞模様靴下 1足
(15) 半袖開襟シャツ 1枚
(16) 白色敷布 1枚
(17) ラクダ色メリヤスシャツ 1枚
(18) 白開襟シャツ 1枚
(19) 手拭の切小端 3枚
(20) カーキー色ズボン 1本
(21) 朝日新聞(8月28日付夕刊) 2枚
(22) ウチワ 1本
(23) チョコレート色と黄色の格子模様掛布団 1枚
(24) カーキー色ジャンバー 1枚
(25) カーキー色ズボン 1本
(26) ラクダ色メリヤスシャツ 1枚
(27) ラクダ色メリヤスシャツ 1枚
(28) 白色パンツ 1枚
(29) 黄色と茶色の模様付毛布 1枚
(30) 朝日新聞(8月28日付朝刊) 4枚
(31) 5円硬貨 11枚
(32) 5円硬貨 1枚
(33) 半銭硬貨 1枚
(34) 四角紙片 2枚
(35) ロッカーの鍵 1個
(36) ウスベリ(畳1枚分の5分の4大のもの) 2枚
(37) 鍵 10個
(38) チョコレート色模様付二つ折財布 1個
(39) 封 書 11通
(40) 髪のもと 1瓶
(41) ビニール製札入 1個現場において犯人が印象したと認められる指紋掌紋等を次のとおり採取した。
(1) アルミニーム粉末によるもの
居宅東南隅の雨樋 1個
勝 手 場
一 升 瓶 1個
ガラス戸の桟 2個
茶ダンス 1個4 畳 間
漬物容器 2個
醤 油 瓶 2個玄 関 内
金 庫 2個
ロッカー側面 6個
アイロン 1個8 畳 間
桐タンス 5個
洋服タンス 3個
砂糖入容器 1個
柱 1個
鉛筆削機 1個
トランジスターラジオ 1個
ナゲシ 2個(2) ニンヒドリン溶液によるもの
8畳間の封筒 1個
(3) 黒粉によるもの
8畳間のナゲシ 2個
(4) ウルトラニームによるもの
居宅東南隅の雨樋 2個
(5) 写真撮影によるもの
便所外側の短い竹棹 1個
5.気象状況その他
(1) 本検証中は、終始曇天であった。
(2) 本検証にあたって、次の者を補助させた。
(1) 指紋の検出採取
茨城県警察本部刑事部鑑識課
司法警察員巡査部長 沼 田 繁 雄
司法警察員巡査部長 土 子 貞 雄
法医理化学係技術吏員 中 田 美 代 志
指紋係技術吏員 桐 原 四 郎
指紋係技術吏員 矢 野 倉 徳 男取 手 警 察 署
司法警察員巡査部長 市 村 晃
(2) 写 真 撮 影
茨城県警察本部刑事部鑑識課
写真主任技術吏員 吉 沢 秀 次
写真係技術吏員 高 岡 英(3) 図 面 作 成
取 手 警 察 署
司法警察員巡査 松 本 武 雄
司 法 巡 査 吉 田 喜 八 郎
司 法 巡 査 飯 島 勝 美本検証を明瞭ならしめるため、見取図13枚、写真101枚を本調書末尾に添付した。