From マルセ読本
私が「マルセ太郎」の名前を知ったのは、千葉刑務所にいたときでした。それは、獄中に2600通の便りを書いてくれ、冤罪と闘う私をこころから励まし、支えてくれた日本国民救援会東京都本部の高橋勝子さんを介してのことでした。
刑務所の中にも社会の情報は届いていて、マルセさんが猿などの形態模写の達人で、個性の強い芸風を持った芸能人であることは知っていました。でも、5年半前に仮出獄で社会へ戻って来るまでは、マルセさんの芸そのものを観る機会は全くありませんでした。
初めてマルセさんと会えたのは、1996年の12月、ビーフリーでの公演の折でした。狭い劇場、椅子1個の舞台、黒い背景のスポットライトの中のマルセさん、あの日のモノトーンの不思議な世界が今でも忘れられません。演じたのは、「殺陣師段平」でした。マルセ劇場とでも言うのでしょうか、マルセさんの全身で造り出す物語は、あの黒一色の背景に写る夢のようで、29年振りに社会へ帰っての初体験だった芝居の興奮とマルセさんの芸の興奮とで本当に夢の中にいるような思いで茨城へ帰ったのでした。
あの日から、金沢での「花咲く丘の家」をはじめ、ビーフリー、シアターXなど、5度、6度とマルセさんに会いに行きました。肝臓ガンと闘い、それを愉しむかのように語っておられたマルセさん、そして、マルセさんの人生観にあふれる芝居は、私の心に共感するものが沢山ありました。
強盗殺人の犯人にデッチ上げられ、死刑の脅しに屈して嘘の自白をした私は、20才のときから「死」と真っ正面から向き合わされました。
無期懲役刑が確定して刑務所へ行ったとき、罪を認めて反省しない者に仮釈放はないと聞かされていたので、これで自分の人生は終ったと思いました。そういう思いでいた日々から私が得た思いは、とにかく今あることに全力を尽くし、かつ愉しもうということでした。
マルセさんと会えるたびに、マルセさんの歩んで来た人生を感じる芝居と芸に惹かれ、酔い、癒されておりました。
無実を訴える私を一べつして通り過ぎる人が多かった中で、なぜマルセさんが私に眼を留めてくれたのか、今では確かめようもありませんが、2600通の便りにもあった高橋さんの情熱に打たれたこと、ご子息の竜介さんが弁護士で同じように冤罪の「草加事件」の弁護をなさっていること等、種々と考えられますけど、きっと日本の権力の卑しさや非道さを身を以て知っておられたマルセさんだったからであろうと思います。
そのときが来るとは判っておりましたけれども、余りにも突然でした。次の公演は無くなってしまい、まだまだ見足りない私は、残念と言うか、悔しいと言うか、もっと見たかった、聞きたかった、知りたかったの気持ちで一杯です。
これからも花が咲く芸を見たかったのに、季節の花を待たずに逝ったマルセさん、あなたを忘れません。せめてあなたの遺したものを機会があるときに観に行きたい、見続けたいと思っています。
さよなら マルセさん。
ありがとう マルセさん。
「 まだ花が咲くのに太郎なぜ逝った 」桜 井 昌 司