[資料5−1] 第1次再審請求審決定
昭和62年 3月31日 水戸地裁土浦支部
※ 媒体の性質上、縦書きの文章を横書きに改め、漢数字を算用数字に直しましたが、内容はほぼ原文通りです。
昭和58年 た 第1号
決 定
千葉市貝塚町192番地 千葉刑務所在監
請 求 人 桜 井 昌 司
請 求 人 杉 山 卓 男
右請求人等に対する各強盗殺人等被告事件について、当裁判所が昭和45年10月6日に言い渡した有罪の確定判決に対し、同人等により強盗殺人に係る部分につき再審の請求があったので、当裁判所は、請求人等及び検察官の意見を聴いたうえ、次のとおり決定する。
主 文
本件各再審の各請求をいずれも棄却する。
理 由
第1 確定判決が認定した事実の要旨
請求人両名は、昭和42年8月28日午後7時30分ころ茨城県北相馬郡利根町所在の栄橋のたもとでたまたま出会った際、翌日行われる取手競輪の遊興資金の捻出方を話し合ったが、請求人桜井の知り合いで小金を貯えて闇金融をしているとの噂があった同町大字布川2536番地大工玉村象天(当時62才)からこれを借り受けようと相談し、両名してそのころ同人方に赴き、請求人桜井が請求人杉山を戸外に待たせて同人方勝手口に到り、同人に借金を申し込んだところ、同人からすげなく断られたため、両名はやむなく右栄橋付近に引き返したけれども、他に金策のあてもないことから再度同人に借金を申し込もうと相談し、再び両名で同人方に赴き、請求人桜井が勝手口から屋内に上がり込み、同人に対し執拗に借金の申し込みをしたが、同人から前同様断られたので、請求人杉山も勝手口から屋内に上がり込み借金を申し入れたところ、同人から激しい言動で拒絶されたため、請求人両名は、この際同人を殺害してでも金員を強取しようと決意するに至り、同所において暗黙の内にその旨の共謀を遂げ、同日午後9時ころ同人方八畳間において同人の頸部に同所にあった布を巻きつけてその上から両手で喉を強く押して扼すなどし、よって即時同所において同人を気管閉鎖による窒息死にいたらしめてこれを殺害したうえ、同人所有の現金約10万7000円を取得し、もってこれを強取したものである。
第2 再審請求の理由
本件再審請求の理由は、弁護人ら作成の再審請求書、反論書(1)、再審請求理由補充書(1)、(2)、昭和60年12月5日付意見書、昭和61年5月12日付意見書、同年10月17日付意見書(補充書)、請求人桜井作成の最終意見書、最終意見補充書、請求人杉山作成の意見書、昭和61年6月16日付上申書に記載のとおりであるが、その要旨は、次のとおり有罪の言い渡しを受けた請求人らに対し無罪を言い渡すべき明らかな証拠をあらたに発見したから、刑事訴訟法435条6号により再審開始の決定を求めるというにある。
1 医学博士木村康作成の意見書( 以下「木村鑑定書」という。)
確定判決が認定した本件犯行時刻および本件被害者の死亡時刻は昭和42年8月28日午後9時ころ( 以下「昭和42年」についてはこれを省略する。)というのであるが、木村鑑定書により、最も科学的、合理的な本件被害者の死亡時刻すなわち本件犯行時刻は同日午後11時30分以降翌29日午前11時01分までの間であることが明らかである。しかるところ、請求人らの捜査段階における自白によると、請求人らは本件当日午後9時50分ころ発の成田線上り電車に布佐駅から乗り、常磐線、山手線、西武線を乗り継いで東京都中野区野方町所在の光明荘アパートへ行ったというのであるから、請求人らの右自白は本件被害者の木村鑑定による死亡時刻と矛盾し、請求人らが本件犯行に及ぶことは不可能であることが明らかとなる。
2 小貫俊明、花嶋政雄、花嶋昭子の弁護人らに対する各供述録取書
確定判決の挙げている小貫俊明の検察官に対する供述調書及びこれとほぼ同旨の同人の証言によれば、同人は本件犯行直前の午後7時40分ころ被害者宅西南角及び勝手口踏台に各1人の男がいるのを見たというのであり、また、請求人らの捜査段階における自白によると、請求人らは同日午後7時05分布佐駅着の成田線下り電車を同駅で下車して本件被害者宅に赴き、請求人杉山は被害者宅前で小貫俊明が自転車で通り過ぎるのを見たというのであるが、前記小貫俊明らの弁護人らに対する供述録取書によれば、同人が自転車で本件被害者宅前を通ったのは、同日午後7時05分布佐駅着の電車を降りた乗客が本件被害者宅に着くより前であると見られるから、小貫俊明が本件被害者宅前で請求人らを見ることも、請求人杉山が同所で小貫俊明を見ることも、時間的、物理的に不可能であることが明らかとなる。
3 伊藤廸稔、角田七郎の弁護人らに対する各供述録取書
確定判決の挙げている伊藤廸稔、角田七郎の検察官に対する各供述調書によれば、青山敏恵(当時の姓は島村、婚姻により改姓)、伊藤廸稔、角田七郎が成田線下り午後7時05分着の電車で布佐駅につき、徒歩で栄橋の石段を上がるとき、請求人桜井と会い、そのとき請求人杉山も近くにいたとの事実(栄橋の件)につき、それが8月28日のことであるというのであるが、前記伊藤廸稔、角田七郎の弁護人らに対する各供述録取書によれば、それは9月1日のことであることが明らかとなる。
4 渡辺昭一の弁護人らに対する供述録取書、弁護人ら作成の昭和58年10月8日付実験結果報告書(以下「識別実験結果報告書」という。)、弁護人ら作成の調査報告書、大利根交通自動車株式会社作成の人権救済申立事件に関する調査協力依頼にに対する回答書
確定判決の挙げている渡辺昭一の原第一審における証言によれば、同人が8月28日夜バイクに乗って時速30キロメートルで自宅から布佐モータースに向う途中、本件被害者宅前で請求人らを見た、その日自宅に戻ったのは午後9時より前であり、また三つ角のところでバスを待っていた役場の山中林に会ったというのであるが、渡辺昭一の弁護人らに対する供述録取書により、同人の証言が同人の虚言癖、妄想癖、霊感に対する狂信等によるものであることが、また識別実験結果報告書により、夜間時速30キロメートルで進行するバイクの運転者が道路の端に佇立する二人の人間を正確に識別することは不可能であって、渡辺昭一が請求人らを識別し得るはずのないことが、更に、弁護人ら作成の調査報告書及び大利根交通自動車株式会社作成の回答書により、山中林が当日布川横町の大利根交通バス停留所でバスを待っていたのは午後9時05分以降のことであって、渡辺昭一が午後9時より前に山中林と会ったということはあり得ないことが、それぞれ明らかとなる。
5 弁護人ら作成の昭和59年7月19日付実験結果報告書及び昭和60年3月30日付実験結果報告書の訂正書(以下「現場実験結果報告書」という。)
確定判決の挙げている請求人らの各供述調書によれば、請求人桜井が本件被害者宅勝手口の踏台に上がり、西側ガラス戸を東側に開けて、「今晩は」と言ったら、被害者が八畳間と四畳間の境の西側ガラス戸を東側に開けて顔を出したのが見えたというのであるが、現場実験報告書により、請求人桜井が右の状況のもとで被害者を見ることは勝手口西側の板の間に置かれていた二つ重ねの茶だんす及び冷蔵庫にさえぎられて不可能であり、請求人らの捜査段階における自白は客観的事実と矛盾することが明らかとなる。
第3 当裁判所の判断
T 木村鑑定書について
1 木村鑑定書の要旨は次のとおりである。
(1) 本件被害者の体表の腐敗による変色、腐敗ガス発生による体の膨張、腐敗水疱、腐敗気泡の発現などから、被害者の死体は、その解剖時、少なくとも死後30時間以上経過していると考えられる。
(2) 被害者の死体が置かれていた被害者宅屋内の室温は摂氏27度と推定されるところ、室温が27度のとき、直腸内温度が本件の場合のように摂氏27度に降下するには少なくとも死後30時間経過することが必要である。
(3) 被害者の角膜は中等度に混濁し、右目の瞳孔透見が至難であることからすると、被害者の死体は、その解剖時、死後24時間から48時間経過していると考えられる。
(4) 原第一審において取り調べられた医師秦資宣作成の鑑定書(以下「秦鑑定書」という。)には、被害者の死体硬直が各関節において中等度に発現しており、しかも簡単に緩解できた旨の記載があることからすると、本件被害者の硬直は緩解終了直前の状態にあったと推測される。しかして、夏期における死体硬直持続時間は30時間から40時間であるが、本件死因が窒息死であることを考慮すると長い持続時間があてあまるので、被害者の死体は、その解剖時、死後40時間前後経過していたと考えるのが妥当である。
(5) 以上を総合すると、本件被害者の死体は、その解剖時、死後30時間から40時間を経過していたと考えるのが相当である。
2 当再審請求審における証人木村康の供述(以下「木村証言」という。)の要旨は次のとおりである。
(1) 本件鑑定にあたっては、秦鑑定書、原第一審において取り調べられた司法警察員作成の昭和42年9月22日付検証調書及び秦資宣の弁護人らに対する供述録取書を資料とした。
(2) 本件死後経過時間の起算点は医師秦資宣が死体の外表検査をした時点であり、具体的には、8月30日午後3時30分から30分以内の時点である。
(3) 死後経過時間の推定方法としては、死斑の発現の状態、角膜の混濁、死体温の降下、腐敗による気泡、水疱、腐敗網等の発現、血液、胆汁の浸潤等いくつかの手掛かりがあるが、本件において死後経過時間の上限を画する決め手となるのは死体硬直の緩解の程度である。
(4) 死体硬直の緩解とは、死体硬直が個々の関節において消失することであり、通常は頭部から順次始まって、最後には足首、足の指にまで及ぶ。全身が緩解の状態になったとき、これを緩解の終了という。緩解は筋肉のタンパク質の腐敗を原因として生ずる現象である。腐敗の進行の度合いは死体の置かれた場所の気温によって左右され、気温が摂氏17、8度のときの緩解終了時間は50時間前後、大体47時間ないし53時間位であり、気温が高くなるに従い緩解終了時間は短くなって、摂氏25度ないし30度のときの緩解終了時間は約40時間である。ただ、緩解終了時間は気温のみによって決まるものでなく、体格等の個人差や死体の置かれていた状況なども考慮する必要がある。
(5) 本件被害者の死体は、解剖時、身体諸関節にまだ硬直があり、しかもその緩解が容易であったとみられるから、緩解終了直前であったと判断できる。死体解剖時の外気温は摂氏25度であったとされているが、被害者はそれまで密閉されたトタン屋根の家屋内に置かれていたものであり、そのような室内の温度は外気温より1、2度高くなることが多く、また解剖当時の直腸内温度が摂氏27度であったということから、死体のあった環境の温度は摂氏27度であったろうと推定される。ただ、死体の腐敗という点では、この1、2度の差は問題になるほどの影響をもたらさないと考えることができる。そして、本件では緩解の進行を時間的に早める要素は存在せず、かつ死因が絞頸窒息死であることを考えると、死体硬直時間の夏期における一般論の長い時間である40時間が当てはまるが、個体差等による幅を考慮に入れれば、本件被害者の死体の死後経過時間は38時間ないし42時間であると推定される。ここで上限を42時間とするのは、43時間を含まない趣旨である。
(6) 自分と異なる見解のもとでは、本件被害者の死後経過時間を43時間と考えても一応の合理性はあることになる。自分の見解でも、死後経過時間が42時間を超えることはあり得ないことではなく、42時間を超えない場合と比較してその頻度は少ないであろうということである。確定判決が本件犯行時刻を8月28日午後9時ころとしているのであれば、死体の検案開始時刻である同月30日午後3時30分から逆算して42時間30分ということであるから、その認定は法医学的にみて矛盾するものではない。
(7) 一般に、死後経過時間を時間単位で正確に計算することは困難である。それは、死後経過時間を確定するための因子が個々の死体について十分に把握できないためである。また、緩解終了時間について法医学者の間で見解が必ずしも一致しないのは、この問題が法医学者の個人的な経験、すなわち各人の扱った事例によっても左右される事柄であるからである。自分の経験によると、夏であれば、通常は1日半から2日で緩解が終了する。ただ、夏期の緩解終了時間を通常2日ないし3日とする見解は、長過ぎて採り得ないと考える。
3 まず、木村鑑定書が、請求人らに対して無罪を言い渡すべきあらたな証拠といい得るか、すなわち、証拠としての新規性を有するか否かについてみるに、木村鑑定書は、本件被害者の死体が、その検案、解剖時、死後30時間ないし40時間経過していたとするものであるところ、秦鑑定書によると、本件被害者の検案、解剖は8月30日午後3時30分に開始されたというのであるから、その時点から逆算しても、木村鑑定書を前提とする限り、被害者の死亡時刻は8月28日午後11時30分から8月29日午前9時30分までの間ということになり、確定判決の認定する8月28日午後9時ころということはあり得ないことになる。よって、木村鑑定書には新規性が認められる。
4 そこで木村鑑定書が、請求人らに対して無罪を言い渡すべき明らかな証拠といい得るか、すなわち、証拠としての明白性を有するか否かについて判断する。
木村鑑定書が、本件被害者の死体が死体硬直の緩解終了直前の状態にあったとし、かかる死体硬直の緩解の程度を唯一の根拠として、死後経過時間の上限を40時間と画していることは同鑑定書及び木村証言によって明らかである。そこで、検察官提出にかかる昭和59年9月14日付意見書添付の法医学書によって死後硬直の緩解終了時間を見ると、石山c夫編「現代の法医学」では季節を限定せず「3日ないし4日」(35頁)、錫谷徹著「法医診断学」では「72時間ないし96時間、ただし高温ではこれよりも早くなる。」(53頁)、赤石英編「臨床医のための法医学」では「夏で死後1日半」(28頁)、矢田昭一ほか著「基礎法医学」では「夏は2日ないし3日」(12頁)、富田功一ほか編「標準法医学、医事法制」では季節を限定せず「2日ないし7日前後」(186頁)とされており、法医学者によって種々の異なった見解が説かれ、それが学問的にも極めて難しい問題であることが認められる。
この点について木村証言は、緩解終了時間についての見解が異なるのは、それが各法医学者の扱った事例によって左右されるためであるとし、夏期の緩解終了時間を通常2日ないし3日とする見解は長過ぎて採り得ないとしながら、証人自身はこれを通常1日半から2日と捉えているのであるが、右見解に照らすと、死体硬直の終了時間のみを根拠に本件被害者の死後経過時間の上限を40時間という時間単位で確定することは相当の無理があるものと考えざるを得ない。
また、木村証言は、木村鑑定書で示した死後経過時間について、死因をも考慮すると死体硬直の夏期における緩解時間は長い方の40時間があてはまるとしたうえで、その40時間について更に個体差による幅を設け、これを38時間ないし42時間としているから、医師秦資宣が本件死体の外表検査をした時である8月30日午後3時30分から30分以内の最も早い時点をその起算点とすると、被害者の死亡時刻は8月28日午後9時30分から8月29日午前1時30分までの間ということになり、確定判決の認定した被害者の死亡時刻とはわずか30分の食い違いしか生じないことになり、また最も遅い時点を起算点としても1時間の食い違いに過ぎない。
ところで、木村証言は、木村鑑定書が被害者の死体の置かれていた場所の気温を摂氏27度と推定し、これを前提として死後経過時間を算定したとしつつ、死体硬直の緩解終了時間の算定にあたっては、1、2度の差は問題になるほどの影響をもたらすものではないとする。しかしながら、同証言も、死体の置かれていた環境の温度が死体硬直の緩解終了時間に大きな影響をもたらすこと自体は認めており、例えばその温度が摂氏17、8度の時の緩解終了時間は50時間前後、大体47時間ないし53時間位というのであるから、本件被害者の死体が置かれていた環境の温度を何度とみるかは、その緩解終了時間の上限を画するにあたって重要な意味をもつものと考えられる。
しかるところ、木村鑑定書及び木村証言が本件死体の置かれていた環境の温度を摂氏27度としているのは、結局のところ推測の域を出るものではないし、また、被害者の死亡後その解剖時までには約2昼夜を経過し、その間気温も相当上下していると考えられることや、本件現場付近の当時の天候が必ずしも明らかでないことからすると、木村証言等が前提とする温度と実際の温度との相違によってもたらされる緩解終了時間に誤差があるであろうことも否定できないところである。したがって、この点からみても、本件被害者の死後経過時間の上限を42時間と画することは、なおその合理性に疑問の残るところである。
これに加え、木村証言は、死後経過時間を時間単位で正確に算定することとが困難であることを認めたうえ、死後経過時間が42時間を超えることは、これを超えない場合と比較してその頻度が少ないであろうというにとどまり、それがあり得ないことではないとし、確定判決の認定する本件被害者の死亡時刻が8月28日午後9時ころというのであれば本件死体の検案時刻から逆算して42時間30分であるから、それは法医学的にみて矛盾するものではないとするのである。
以上を総合すると、確定判決の認定した本件被害者の死亡時刻は、木村鑑定書によっても法医学的に否定されるものではなく、却って、法医学の見地からも十分これを肯認し得るということができるのであるから、木村鑑定書に明白性を認めることはできないものといわなければならない。
U 小貫俊明、花嶋政雄、花嶋昭子の弁護人らに対する各供述録取書について
1 右各供述録取書の要旨は次のとおりである。
(1) 小貫俊明の弁護人らに対する各供述録取書
8月28日夕方母と一緒に北相馬郡利根町大字布川1814番地所在の森杉林三方へ野菜の仕入れに行くことになり、自転車で家を出たが、途中近所の花嶋昭子に頼まれて、その夫花嶋政雄のため、布佐駅前の自転車預り所まで傘を届けることになった。花嶋政雄は当時午後7時ちょっと過ぎに布佐駅に着く電車で帰ってきていたと聞いているので、自分は午後7時ころに布佐駅前の中沢自転車預り所に着いたと思う。それからすぐに引き返し、被害者宅前を通って森杉方へ行った。そのとき、被害者宅前には二人の男が立っており、うち一人が被害者と話をしているのを見たが、それは午後7時10分ころのことと思う。森杉方はその被害者宅からさらに自転車で5分足らずの所にある。森杉宅では野菜の仕入れのために30分以上おり、帰りにも被害者宅前を通ったが、そのとき二人の男はもういなかった。森杉の家のテレビにプールの場面が映っていたように記憶しているが、それが森杉の家についてすぐだったのか帰る間際だったのかということはわからない。当日布佐駅前に傘を届けに行ったことについては、当時駐在所や警察でも話をしているはずである。
(2) 花嶋政雄の弁護人らに対する各供述録取書
当時千葉県松戸市北松戸にある会社に勤務していたが、会社からの帰りは、たいてい午後7時ちょっと過ぎ着の電車で布佐駅について、それから自転車で帰宅していたので、家に着くのは午後7時15分か20分ころだった。当日布佐駅か駅前の自転車預り店あたりで小貫俊明に会ったかどうか、また当日誰かが布佐駅前まで傘を届けに来てくれた形跡があったかどうかということについては記憶がない。
(3) 花嶋昭子の弁護人らに対する各供述録取書
8月28日夕方、小貫道子と小貫俊明が森杉方へ野菜の仕入れに行く途中で私方に立ち寄ったが、当時、私が警察官に対し、それは午後7時少し前だったと述べたのに対し、警察官が午後7時過ぎのはずだと言い、何度か言い合いのようになったことを覚えている。当時、私は小貫俊明にちょっとした用事などをよく頼んでいた。夕方急に雨が降ってきたりしたときは、夫の政雄のために布佐駅前の中沢自転車預り店まで小貫俊明に傘を届けてもらうこともよくあった。その場合、小貫俊明はたいてい午後7時少し前に私の家を出ていたはずである。同人が8月28日に布佐駅まで傘を届けに行ったかどうかは記憶にないが、同人が私方に立ち寄ったのが午後7時少し前であることを、私が当時自信をもって言えた理由は、当日、小貫俊明に布佐駅まで傘を届けるよう頼んだということ以外考えられない。
2 まず、右各供述録取書の新規性について判断する。
原第一審における小貫俊明の証言の要旨は、同人が森杉方へ行く途中、当日午後7時から8時の間に被害者方玄関で二人の男を見た、一人が被害者と話をしていた、森杉方について約10分でユニバーシアードの水泳中継をテレビで見たというものである。また原第一審において取り調べられた小貫俊明の検察官に対する昭和42年11月8日付供述調書の要旨は、同人が当日午後7時40分ころ森杉方へ行く途中、被害者宅前を通ったところ、被害者宅の西南角に背の高い男が一人たっており、勝手口の踏台にもう一人の男が立っていたというものである。
したがって、同人の弁護人らに対する供述録取書は、同人の右証言及び検察官に対する供述調書の記載と相違するものであるとともに、請求人らの捜査段階における自白によると、請求人らは当日午後7時05分布佐駅着の電車を降りて徒歩で被害者宅に向かったというのであり、請求人らが当日午後7時10分ころに被害者宅前にいることは物理的に不可能であるから、小貫俊明の弁護人らに対する供述録取書には証拠としての新規性を認めることができる。
また、花嶋政雄の弁護人らに対する供述録取書は当時の同人の帰宅時間について、花嶋昭子の弁護人らに対する供述録取書は8月28日小貫俊明が布佐駅前まで傘を届けたことについて、それぞれ、小貫俊明の弁護人らに対する供述録取書の裏付けという性格を有するものであり、同人らの供述は原審において全く証拠調べの対象になっていないのであるから、右各供述録取書にも新規性を認めることができる。
3 そこで、右各供述録取書の明白性について判断する。
原第一審における小貫俊明の証言によると、同人が森杉方についてから約10分してテレビを見たとき、ユニバーシアード大会の水泳競技のプールの場面が映っていたというのであるが、原第一審において取り調べられた佐々野利彦作成の回答書(司法警察員作成の昭和42年10月19日付捜査関係事項照会書に対するもの)によると、当日のユニバーシアード大会水泳競技のテレビ放映は午後8時03分されていたことが認められるから、右証言によると、同人が森杉方についたのは午後7時50分ころ以後ということになり、それから逆算すると、被害者宅前を通ったのは午後7時45分ころになると推定される。また、同人の検察官に対する前記供述調書においても、同人は概ねこれにそう供述をしている。
ところが、小貫俊明の弁護人らに対する供述録取書によると、同人は当日午後7時10分ころ被害者宅前を通って森杉方へ行ったというのであり、その理由として、花島政雄のため午後7時過ぎに布佐駅に着く電車に間に合うように同駅前の自転車預り店に傘を届けたことを挙げ、花嶋昭子の弁護人らに対する供述録取書にも、小貫俊明が布佐駅前へ傘を届けに行ったという点につき、これと同旨の記載がある。
しかし、小貫俊明の弁護人らに対する供述録取書が作成されたのは昭和57年のことであり、本件後約15年を経過して、なぜ被害者宅前を通過した時刻を特定し得る右のような事柄を思い出すことができたのかということについては、右供述録取書においても何ら説明がなされていないうえ、花嶋昭子の弁護人らに対する供述録取書によると、同人は当時小貫俊明にちょっとした用事をよく頼んでおり、夕方急に雨が降ったときなどは布佐駅まで傘を届けてもらうことを頼んだこともあったというのであるから、このように当時何度もあったことにつき、それが8月28日にもあったというためには、特に15年もの長期間を経過した後にあっては、日時を特定すべき特別の事情を要すると考えられるところ、そのような事情も何ら窺われない。
しかも、当再審請求審において検察官から提出された司法警察員ほか1名作成の昭和42年8月30日付捜査報告書によると、小貫俊明の当時の供述要旨は、同人が8月28日午後7時30分ころ花嶋昭子から頼まれて布佐の宮本病院近くにある七栄そば屋へ行き、すぐに花嶋方に引き返してから、その足で森杉方へ向かったところ、その途中、被害者宅前で二人連れの男を見たというのであるから、同人の弁護人らに対する供述録取書の記載は同人の本件直後の供述とも全く相違している。
よって、小貫俊明の弁護人らに対する供述録取書の記載は同人の原第一審における証言等と比較して信用性が極めて低く、これに明白性を認めることはできないものというべきである。
また、花島政雄の弁護人らに対する供述録取書は、当時同人の布佐駅に着く時刻が通常午後7時過ぎであったというにとどまるものであって、小貫俊明の弁護人らに対する供述録取書の信用性が否定される以上、それ自体として本件に何らの意味を持つものではない。
花嶋昭子の弁護人らに対する供述録取書についてみても、同人が当日森杉方へ行こうとしている小貫俊明らに会ったのが午後7時前であったと考える根拠として、小貫俊明に布佐駅前まで傘を届けに行ってもらったから自信をもってそう言えたのであろうとしているが、同人は、当日小貫俊明に傘を届けるよう頼んだかどうかということ自体は記憶にないというのであり、結局、同人の述べるところは、それ自体推測によるものに過ぎない。
しかも、前記捜査報告書によると、同人に頼まれて小貫俊明が布佐へ行ったのは、布佐駅前の自転車預り店へ傘を届けに行くためでなかったことが明らかであるから、花嶋昭子の弁護人らに対する供述録取書の信用性も極めて低いといわなければならない。よって、右供述録取書にも明白性を認めることはできないというべきである。
V 伊藤廸稔、角田七郎の弁護人らに対する各供述録取書について
1 右各供述録取書の要旨は次のとおりである。
(1) 伊藤廸稔の弁護人らに対する供述録取書
栄橋の件が何月何日のことであったかということは、今ではもちろん、当時警察や検察庁で調べを受けたときもはっきりしなかった。他の人も8月28日のことだと言っていると教えられたため、どうも違うようだと思いながら、自分もその旨の供述調書に署名押印した。今考えてみると、栄橋石段の件は、朝の通勤途中に電車内で請求人杉山と会い、同人に大宮の現場まで働きに行かないかと誘い、帰りに我孫子駅や布佐駅でまた同人と一緒になった日のことであるような気がする。その日の朝は角田七郎とも一緒で、角田は北千住で降り、請求人杉山も結局日暮里で降りたと思う。帰り途に我孫子駅で請求人杉山と一緒になったが、同人は布佐駅から誰かの自転車の後ろに乗って先に行った。そして栄橋手前の成田街道の靴屋の前で同人が誰かと話しているのを見かけた。それに引き続いて栄橋石段の件があった。8月28日の午前中は常磐線が不通だったのだから、電車の中で請求人杉山に大宮に行かないかと言うはずはなく、また靴屋の前での立ち話は9月1日の恐喝事件として問題にされたことだそうであるから、栄橋石段の件も9月1日のことである可能性が強いと思う。
(2) 角田七郎の弁護人らに対する供述録取書
栄橋石段の件が何月何日のことであるかということについては、当時警察官に聞かれたときも、そのことがあってからすでに2、3か月を経過していたため、はっきりとはしなかった。ただ、警察官や検察官からそれは8月28日のことで、他の関係者もそう言っているから間違いないと言われその旨の供述調書に署名押印した。しかし、よく考えてみると、栄橋石段の件は、朝の通勤途中に、常磐線の電車の中で伊藤が請求人杉山に対し大宮へ仕事をしに行かないかと誘った日のことであり、しかも帰りに布佐駅からバス停まで歩いている途中、成田街道の丁字路付近で請求人杉山が2、3人の男と話をしていた日のことであるという気がする。そして、それに引き続いて栄橋石段の件があったと思う。したがって、それは8月28日のことではないと思う。
2 まず右各供述録取書の新規性について判断する。
(1) 伊藤廸稔の原第一審における証言の要旨は、当時、同人が会社からの帰りに我孫子発の成田線電車内で請求人杉山と会ったことがあり、その日に栄橋石段の件があった、それが常磐線の事故の翌日であったかどうかということについては記憶がない、それは栄橋石段の手前の靴屋の前で同人がもう一人の男としゃがんで話をしていた日と同じ日のことである、恐喝をした日といわれると記憶があるというものである。
伊藤廸稔の検察官に対する供述調書の要旨は、同人が常磐線の事故の翌日である8月28日の会社からの帰宅途中に我孫子発成田線の電車内で、何時も一緒になる角田と一緒になったが、我孫子駅発車直前に請求人杉山とも会った、布佐駅を降りてから3人で歩き、栄橋を渡ったバス停のところで同人とは別れた、栄橋石段の件はその日のことであり、近くに青山敏恵も歩いていたというものである。
したがって、伊藤廸稔の前記供述録取書は、栄橋石段の件があった日が、靴屋の前で請求人杉山が他の男と話をしているのを見たのと同じ日であるという点については、伊藤廸稔の原第一審における証言と同旨のものであって新規性を認め得ないが、同人が朝の通勤途中電車内で請求人杉山と会い、同人に対し、仕事があるから大宮まで一緒に行こうと誘った日がこれと同じ日であるとする限度で新規性を認めることができる。
(2) 角田七郎の原第一審における証言の要旨は、当時栄橋石段の件があったが、それは請求人杉山が大宮へ行った日のことである、その日は帰りも我孫子駅のホームか成田線電車内で同人と会い、布佐駅で降りてから歩いている途中にもまた同人と一緒になったが、同人は靴屋の前で2、3人の男と一緒になったので、そこで同人と別れた、栄橋石段の件が常磐線事故の翌日であるかどうかは記憶にはっきりしない、前の調べのとき、それが常磐線の事故の翌日であると述べているのであればそうだと思う、常磐線事故の前後のころ、帰宅途中に同人と会うことは何度かあったというものである。
角田七郎の検察官に対する供述調書の要旨は、常磐線事故の翌日である8月28日の会社からの帰りに請求人杉山と会ったが、栄橋石段の件もその日のことであった、その日同人と会ったのは成田線下りの電車の中であったという気がする、その日は伊藤とも一緒であり、布佐駅を降りてからは青山敏恵とも一緒になった、請求人杉山とは駅前通りで一緒であった気がするが、その後のことははっきりしない、栄橋まで来たとき、同人が先に行っていたのか後になっていたのかということもはっきりしないというものである。
そこで、角田七郎の前記供述録取書の記載を右各供述と対比すると、前記供述録取書は、要するに、栄橋石段の件が8月28日のことでないとする根拠として、それは請求人杉山が大宮へ行くことになっていた日のことであること、また同人が靴屋の前で他の男たちと立話をしていた日のことであることを挙げているところ、角田七郎は、原第一審における証言においても、これと同旨のことを述べているのである。
もっとも、同人は右証言において、前の調べのとき栄橋石段の件が常磐線事故の翌日のことだと述べているのであればそうだと思うと述べるなど、右と矛盾する供述も見られるのであって、前記供述録取書と同旨の証言を確定的なものとして述べているわけではないが、他方前記供述録取書においても、同人は、栄橋石段の件が、大宮行きの話題になった日で、請求人杉山が靴屋の前で男と話していた日と同じ日であるという気がすると述べているにとどまり、これを確定的なものとして述べているわけではない。よって、角田七郎の供述録取書に新規性を認めることはできないものといわなければならない。
3 次に、伊藤廸稔の弁護人らに対する供述録取書の明白性について判断する。
伊藤は、右供述録取書において、大宮へ行こうと請求人杉山を誘った日と栄橋石段の件等のあった日とは同じ日であると供述するのであるが、本件後15年余を経過してなぜこれを思い出すに至ったのかということについては、右供述録取書においても何ら説明されるところがなく、通常、このような事柄については、年月の経つに従って記憶の薄れていくことは経験則上も明らかであることに鑑みると、特別の事情のない限り、15年余を経過して突然これを思い出したと言ってみても、その信用性は一般に低いものと評価せざるを得ない。
そしてこのことは、同人自身が右供述録取書において、栄橋石段の件は請求人杉山を大宮に誘った日と同じ日であるような気がすると述べるにとどまっていることからも十分に看取できるところである。したがって、伊藤の弁護人らに対する供述録取書は、栄橋石段の件が8月28日のことであって、その日は午前中常磐線が不通であったとする同人の検察官に対する供述調書や青山敏恵の原第一審、原第二審における各証言と比較しても、その信用性において劣るものといわなければならない。よって、右供述録取書に明白性を認めることはできないものというべきである。
W1 渡辺昭一の弁護人らに対する供述録取書について
(1) 右供述録取書の要旨は次のとおりである。
(1) 8月28日夜、自宅から中田切によって布佐モータース(坂巻方)へ行く途中、本件被害者宅前を通ったとき、そこに二人位の男がいるような気がしたが、そのときはそれが誰かわからなかった。そこを通り過ぎて不動様へ入る道の入口付近で4、5人の人を見かけたが、そのうちの二人の男の顔を見たとき、被害者宅前で見た顔として請求人両名の顔が浮かび上がってきた。それは、予知能力や霊感によるものがあると思う。
(2) 布佐モータースでテレビを見てから自宅に戻る途中、布川横町の三差路を通りかかったとき不吉な予感がし、まっすぐ行こうと思っていたのを左折して被害者宅前の道を進んだ。玉村肥料店前辺りに来たとき、また不吉な予感がした。それも予知能力や霊感と関係があるものと思う。
(3) そこから少し進んだときに、被害者宅の方に二人の人影が入るのを見かけたが、それが誰であるかはわからなかった。
(4) 被害者宅前を単車で徐行して通り過ぎようとしたとき、鶏の首をしめ殺すような音が聞こえたので、単車を記念館の前に止め、被害者宅へ行き、道端から窓をのぞき込んだが、家の中は暗くて何も見えなかった。
(2) 弁護人らは、渡辺が本件当時ノイローゼ気味になっており、かつ虚言癖、妄想癖の持ち主であるうえに、霊感に対する狂信者であって、同人の原第一審、原第二審における証言の信用できないことが右供述録取書によって明らかになると主張するので、その新規性、明白性について判断する。
右供述録取書の要旨(1)については、原第二審における同人の証言中に、当夜自宅から布佐モータースに行く途中、被害者宅前で4、5人以上の学生らしい若い人と会い、その顔が被害者宅前で見かけた二人の男の顔と似ていたので印象に残ったとの部分があり、原第二審において実施された検証の結果を記載した検証調書によると、不動様へ入る道の入口とあづま亭はさほど離れていないことが認められる。
したがって、被害者宅前で見た二人が請求人両名であることを認識した経緯についての右供述録取書の記載は、渡辺の原第二審における証言と同趣旨のものであって、これに新規性を認めることはできないというべきである。また、右供述録取書中、そのように特定、認識できたのは予知能力や霊感によるものがあると思うとの部分についても、それが請求人両名を特定、認識するに至った唯一の理由であるとする趣旨とまではみられないし、あづま亭付近で見た男の顔と似ていたことが思い出すきっかけとなったとする渡辺の原第二審における証言が右供述録取書によって否定されるものでもないとみられるから、それを同人が予知能力や霊感と結びつけたからといって、同人が被害者宅前で見た二人の男を請求人両名と特定、認識し得たとの供述の信用性に疑問を生じさせるものではないものというべきである。
なお、右の特定、認識の経緯についての原第一審、原第二審における渡辺の証言および同人の検察官に対する供述調書の記載にはある程度の変転が見られるのであるが、原第二審判決、原第三審決定が既に詳細に説示するとおり、その故をもって、同人が請求人両名を特定、認識し得たとの証言等自体の信用性を否定することはできないものというべきである。よって、右の部分につき明白性を認めることはできない。
同(2)については、渡辺の原第一審、原第二審における証言中に、布佐モータースから自宅への帰路、被害者宅の手前にさしかかったときに不吉な予感がしたとの部分があるから、当夜自宅への帰路に不吉な予感がしたという限度では新規性を認めることができない。また不吉な予感がした場所は右証言と異なっており、不吉な予感が予知能力や霊感に関係があると思うとの部分は右証言等にはなかったものであるが、同人の自宅への帰路の現場付近における行動、認識等に関する供述は、原第二審判決が説示するとおり、相当程度においてその信用性を否定すべきであることや、同人の前記供述録取書が本件後約16年を経て作成されたものであることにも鑑みると、この点に関する右供述録取書の記載をもって、同人の原第一審における証言の信用性が原第二審判決の説示する程度を超えて否定されることはなく、したがって右の部分についても明白性は認められないものというべきである。
同(3)は同人の原第一審、原第二審における証言と異なる供述であり、同(4)のうち、被害者宅前で鶏の首をしめ殺すような音が聞こえたとの部分は右証言に同旨のものがあって新規性を認め得ないが、その余の部分は右証言と異なる供述である。しかしながら、同(2)について述べたと同様の理由により、右証言と異なる弁護人らに対する供述録取書の記載にも明白性を認めることはできない。
以上のとおりであるから、渡辺の弁護人らに対する供述録取書によっても、弁護人らの主張する理由により、渡辺の原第一審における証言の信用性を、原第二審判決が説示する程度を超えて否定することはできず、よってこれに新規性、明白性を認めることはできないものというべきである。
2 認識実験結果報告書について
(1) 識別認識実験結果報告書の要旨は次のとおりである。
(1) 夜間、第三京浜自動車道路橋脚下の幅員約8.3メートルの道路の即端から中央より1メートルの地点にB点を設け、B点から更に中央より1メートルの地点にA点を設けて、A点、B点にそれぞれ一人ずつ二人の男性を向かい合って立たせる。A点、B点に誰が立っているかは識別者に知らせない。
(2) 7名の識別者が50CCの原動機付自転車を運転してA点の約1.2メートル中央寄りを時速30キロメートルで直進し、A、B点にそれぞれ立っている男性の識別状況を実験すると、7名のうち2名はA点に立っている者のみを、1名はB点に立っている者のみをそれぞれ識別できたが、4名はA、B点いずれに立っている者も識別できなかった。
(3) 同じ7名の識別者が、時速30キロメートルで直進する125CCの原動機付自転車の後部荷台に同乗してA点の約1.2メートル中央よりを通過し、A、B点にそれぞれ立っている男性の識別状況を実験すると、7名のうち3名はA、B点のいずれに立っている者をも識別でき、3名はA、B点のいずれに立っている者をも識別でき、3名はA点に立っている者のみを、1名はB点に立っている者のみを識別できた。
(2) 原第二審において実施された検証の結果を記載した前記検証調書によると、検証は夜間被害者宅前の道路で実施され、その道路を時速30キロメートルで直進するバイクの後部荷台に裁判官が同乗し、バイク進路から約2メートル及び約4メートル離れた地点に立っている2名の男性の識別状況を実験したところ、それが誰であるかは識別し得たというのである。
(3) 弁護人らは、本件当時バイクを運転して被害者宅前を通りかかった渡辺が、被害者宅前に立っていた二人の男を請求人両名であると識別することが不可能であったことは、識別実験結果報告書によって明らかであり、したがって、これを識別し得たとする同人の証言等が信用できないこともまた明らかであると主張する。
(4) 渡辺が当夜バイクに乗り、被害者宅前を時速30キロメートルで通りかかったとき、同人自身がバイクを運転していたことは、同人の前記証言等によって認められる。したがって、同証言等と異なる内容の右報告書には新規性が認められるので、以下、同報告書の明白性について判断する。
右報告書によると、一般にバイクを運転している者より後部荷台に同乗している者の方が付近に立っている者を識別し易いということは認められるが、他方、バイクを運転している者が付近に立っている者を識別し得るか否か、また識別し得る者の範囲如何については、相当の個人差があることもまた右報告書によって認められる。
更に、その他種々の事情がその識別能力に影響を及ぼすであろうことは、経験則上容易に推認されるところである。そして、このように識別能力に差異をもたらす事情としては、右の個人差(識別者の視力、注意力、バイク運転の経験年数、習熟度、識別者との関係等によると考えられる。)のほか、識別者と被識別者との距離、付近の明るさ、識別者にとって通り慣れた道であるかどうか等の事情が考えられる。
そこで、これらの事情を本件についてついてみるに、渡辺の原第一審、原第二審における証言、同人の検察官に対する供述調書、前記各検証調書によると、渡辺は当時クリーニング業を営み、商売柄、バイクを毎日のように運転し、被害者宅前道路もバイクでしばしば通っていたこと、同人は請求人桜井のことをその中学生当時から良く知っており、請求人杉山のことも本件前の昭和42年4月ころから知っていたこと、渡辺の進路と被害者宅前に立っていた二人の男との距離は最も近いところで2メートルないし4メートル前後であったことが認められるほか、被害者宅付近には人家が立ち並んでおり、街灯もあって、午後7時30分ころであってもある程度明るかったことや、被害者宅にも電灯のついていたことが推認される。
これに対し、識別実験結果報告書の実験では、識別者の視力は概ね普通と考えられるものの、バイクの運転経験の程度、習熟度は明らかでなく、識別者と被識別者との関係も明らかでない。また、右実験における識別者と被識別者との距離は最も近いところで1.2メートル及び2.2メートルであったことが認められるが、同実験は付近に照明のない橋脚下付近で行われたものであるから、被識別者の立っていた辺りは真暗かそれに近い状態であるうえ、識別者らがバイクで走行することも実験当日がおそらく初めてであったろうと推認される。
以上によると、渡辺が本件当時被害者宅前をバイクで通過したときの識別状況と右実験におけるそれとを比較してみた場合、識別能力に影響をもたらすと考えられる事情には相当程度不明のものがあってその比較はかなり困難とみられるうえ、判明し又は推認し得る事情を比較する限りにおいては、識別者と被識別者との距離を除くその他の点で、渡辺が本件当日午後7時30分ころ被害者宅前を通りかかったときよりも右実験の方が、より識別しにくい状況のもとでなされていると考えられる。
そして、以上の諸事情を勘案すると、渡辺が8月28日午後7時30分ころ被害者宅前を通りかかった際、被害者宅前に二人の男が立っており、それは請求人両名であることが識別できたとする同人の原第一審における証言につき、識別実験結果報告書はその信用性に何ら疑問を抱かせるものではなく、よって、右報告書に明白性を認めることはできないものといわなければならない。
3 弁護人ら作成の調査報告書及び大利根交通自動車株式会社作成の人権救済申立事件に関する調査協力依頼にに対する回答書について
(1) 弁護人ら作成の調査報告書は、山中林が昭和58年2月ないし6月ころ、弁護人らに対して供述した内容を録取し、更に元役場分室から布川横町バス停までの徒歩所要時間を計測したものである。山中の供述要旨は、同人が8月28日夕方から午後9時ころまで来見寺の入口の左横の元利根町役場分室であった建物の中にある碁会所で碁を打ち、午後9時過ぎに碁会所を出て横町バス停へ行き、同バス停から大利根交通早井行き終バスに乗って自宅に帰った、横町バス停で渡辺をみたり挨拶したりした記憶はないというものである。また、元役場分室から横町バス停までの徒歩所要時間は、計測したところ、3分43秒ないし4分であったというものである。
大利根交通自動車株式会社の回答書は、取手発早井行き終バスの横町バス停通過標準時刻は午後9時15分であるというものである。
(2) 渡辺は原第一審、原第二審において、布佐モータースから自宅へ戻る途中、三ツ角のところでバスを待っている山中に会い、その後被害者宅前を通って、午後9時前には自宅に戻ったと証言する。
(3) そこで、まず、前記調査報告書及び回答書の新規性についてみるに、これらを前提とすると、渡辺が横町バス停前を通った時刻は午後9時過ぎであって、午後9時前に自宅に戻ることは不可能であり、同人の証言は客観的事実と矛盾することになる。よって、前記調査報告書及び回答書には新規性を認めることができる。
次にその明白性についてみるに、山中は午後9時過ぎに碁会所を出て横町バス停へ行ったというのであるが、本件から約15年余を経過していたにもかかわらず、同人がなぜそれを午後9時前ではなく午後9時過ぎであると記憶していたのかという理由については右調査報告書においても全く述べられておらず、結局、それは早井行き終バスの横町バス停通過時刻が午後9時15分であることから逆算されたものとみるほかないのである。
しかるところ、同人が時間的に余裕をみてバス停へ向うことも考えられないところではなく、特に終バスに乗る場合は、他の場合に比し、時間的に余裕をみることが通常経験されるところであることからすると、他に十分な根拠を有さず、単に終バスのバス停通過時刻のみを根拠とするとみられる山中の右供述は、その供述が本件後長期間を経過した後にされたことからみても、その信用性は低いといわざるを得ない。
また、右調査報告書によると、碁会所のある元役場分室から横町バス停までは徒歩で4分弱というのであり、原第二審において実施された検証の結果を記載した前記検証調書によると横町丁字路から被害者宅までは約110メートル、被害者宅から渡辺の自宅まではバイクで走行した場合の所要時間が1分12秒にすぎないことが認められる。
したがって、山中の供述を前提としても、帰宅時刻に関する渡辺の証言の客観的事実との食い違いは、せいぜい数分程度のものとみられるところ、渡辺の当日の帰宅時刻に関する供述は同人の原第一審、原第二審における証言でも明確を欠き、また変転もみられるところであって、もともとさほど信用性を有するとはみられないものであることや、前記のとおり布佐モータースから自宅への帰路についての同人の証言自体信用性に乏しいと考えられることに鑑みると、帰宅時刻に関する証言の右程度の食い違いは、原第二審判決が説示する程度を超えて同人の証言の信用性を否定させるものではないというべきである。
よって、前記調査報告書及び回答書には明白性を認めることはできない。
D 現場実験結果報告書について
1 現場実験結果報告書の要旨は、司法警察員作成の前記検証調書に従って被害者宅の一部を再現し、勝手口の西側(左側)ガラス戸を東側に7分目ほど開けた状態及びこれを全開した状態で、勝手口踏台に立った人間が八畳間と四畳間との境のガラス戸の西側付近に立った人物を見ることができるか否かを実験したところ、ガラス戸を7分目ほど開けた状態では勝手口内に頭を入れることも不可能であり、これを全開した状態で勝手口前踏み台に立った者が上体を勝手口内にのばして八畳間方向をのぞき込んでも、八畳間と四畳間との境のガラス戸の西側付近に立った人物を見ることは不可能であったというものである。
2 請求人桜井の捜査段階における供述書中には、当夜同人が勝手口前の踏台に立ち、西側のガラス戸を東側に7分目位開けて中をのぞいたら、八畳間と四畳間との境のガラス戸のうち西側のガラス戸を開けて八畳間内に立っている被害者を見たとの部分がある。
3 現場実験結果報告書によると、請求人桜井が右自白のとおりの方法によって被害者を見ることは不可能であるというのであるから、右報告書は請求人桜井の自白の信用性に疑問を生じさせる可能性のあるものであり、したがって、右報告書には新規性を認めることができる。
そこで、右報告書の明白性についてみるに、既に原第二審判決が説示するとおり、請求人桜井の司法警察員に対する昭和42年10月15日付供述調書によると、同人は勝手口前踏み台に立って中をのぞき込んだ後、すぐに靴を脱いで勝手板間に上がっているのであるから、その時点においては八畳間から顔を出した被害者を認めることは容易であったとみることができる。
そして、右一連の行為が極めて短時間にされていることからすると、同人が勝手口前踏台に立った後どの段階で被害者を認めたかという点について多少の思い違いがあり、又は供述に不正確な点があったとしてもそれはその部分の供述の信用性を否定するにとどまるものというべきである。
しかも、どの段階で被害者を認めたかということは、同人の自白において何ら重要性を有するところではないのであるから、この点においても、右部分の供述の信用性を否定することは、同人の捜査段階における自白自体を虚偽のものであるとして、その信用性を否定させるに至るものではない。よって、現場実験結果報告書に明白性を認めることはできないといわなければならない。
Y 以上の次第であるから、請求人らに対して無罪を言い渡すべき明らかな証拠をあらたに発見したとして弁護人らが提出した前記各証拠は、いずれも刑事訴訟法435条6号所定の新規性ないし明白性の用件を具備しないものといわなければならない。
また、請求人及び弁護人らは、請求人らの捜査段階における自白につき、その任意性、信用性が否定されるべきことを縷々主張するが、その主張するところを参酌してこれを検討しても、原第二審判決及び原第三審決定が説示するとおり、右自白の任意性、信用性は十分にこれを肯認することができる。そして、一件記録を精査し、かつ当再審請求審における事実調べの結果を総合しても、前記各証拠に新規性ないし明白性を認めることはできないとした右結論を左右することができない。なお、弁護人らは、当再審請求審においてした事実調べ以外にも、事実調べの請求をしているが、それらの事実調べは不必要であると認められる。
よって、本件各再審請求は理由がないから、同法447条1項によりこれをいずれも棄却することとし、主文のとおり決定する。
昭和62年3月31日
水戸地方裁判所土浦支部
裁判長裁判官 榎 本 豊 三 郎
裁判官 近 藤 壽 邦
裁判官 佐 賀 義 史