「……なぁ紐緒さん。今日ってシェイクダウンの日だよな?」 『そうよ』 「シェイクダウンってつまり、出来立てほやほやのクルマに不具合が無いかどうかのテストって事だよな?」 『その通りよ』 「じゃあ、一つ聞くけど」 『なに?』 「なんで古式さんとレースしてるんだ、俺?」 ホームストレート上で、公人の乗るNSXの真後ろに古式のGT‐Rがぴたりと張りついていた。 時速200キロを超える速度で2台の差は僅かに1m弱。 それはもう、レースと言っても過言ではなかった。 コントロールラインを通過し、ピットウォールから見守るスタッフらを尻目に、1コーナに入るべくアウト側にラインを取る。 僅かな減速で1コーナに進入し、2コーナは全開。次のコーナ手前でブレーキングで減速をし、そのまま進入していく。 NSXとGT-Rはスペックの違いから微妙に最速ラインが異なっているようだが、その上で古式は公人の背後にぴたりと張りついて離れない。 岩隗が露出するエリアにおいてもそれは変わらず、バックストレートでは公人のほうが微妙に速かったものの、ヘアピンですぐにまた後ろに張りつく。 智哉が脇に寄ってラインを譲ればいいのだが、この状況下で迂闊な減速は危険でもあるし、バックミラー越しに感じる古式の視線がそれを許さない。 まるで古式に追いまわされるかのように、アクセルを踏みつづけていた。 「どうなってるんだよ、紐緒さん。レースするなんて話聞いてないぜ?」 『私もレースするなんて言ってないわよ?』 「古式さんに何か言ったのか?」 『いいえ何も。ただ、遠慮は要らないわよ、と言っただけよ』 「あー、あ〜、なんか全部理解した気分」 一周してホームストレートにさしかかり、古式が公人の真後ろからクルマ半分ほどラインをずらした。 と言ってもオーバーテイクをかける気配はない。 「オーバーヒート対策か…」 前車の背後にくっ付いて走ると、前車が風防代わりとなり空気抵抗が軽減する効果がある。 ただ空気抵抗が軽減すれば、ラジエータへの風も弱くなり働きも悪くなる。 そこで古式は直線区間では時々ラインをずらして、ラジエータに風を当てているのだ。 古式は別に意識して公人をプッシュしているわけではなかった。 しばらくレースはおろか全開走行も行っていなかったため、つい楽しくなって、前にいる公人に付いていってしまってるのである。それ以外に悪意も他意もない。 紐緒に、遠慮は要らない、と言われて額面通りに受け取っているだけなのだ。 クルマの仕上がりは、古式のGT‐Rのほうが完成度が高かった。 古式は全開走行をしているものの、限界までは十分なマージンを持って運転している。 それに比べて、公人は、それほど余裕があるわけでもなかった。古式にいい様に突つかれてるのがその証拠である。 5周を終え、次の周回に入るときに、公人はストレートで古式に前に行くようにとウィンカーで合図を送り促してみた。 公人も古式の後ろを走って見たくなったのである。 追い越しを促しても減速はしない。しかし古式のクルマと腕前なら、追い越しは可能である。 公人の意図を読みとってくれたのか、1コーナで古式はパッシングを一度して前に出た。 古式のGT‐Rは純粋に速かった。 公人ですら直線で差を詰めるのがやっとだった。 紐緒に言われた10周を終えて、ピットに戻る頃には、一レース終えたかのようにクタクタになっていた。 「…本気で疲れた…」 「そりゃ慣れないクルマであんなコトすれば、疲れるに決まってますよ」 クルマから降りた公人を迎えたのは、秋穂だった。さっきまで車酔いで倒れてた割には、口調に容赦がない。 「ま、それもあるけどな。古式さんの気配はかなり神経消耗させるわ。レースの時は全然大丈夫だったんだけどなぁ」 「ふーん、そんなもんなんですか?」 秋穂はどうやら話半分くらいにしか受け取っていないようである。 「視線がね、なんと言うか、…妙な迫力があった」 ヘルメットを脱ぎながら、バックミラー越しに突き刺さる視線を思い返すが、目つきは変わっていなかった。 ただ、その眼光の鋭さは、以前よりもより強さを増していた。 「今日はデータ取りなんですから、変なことやって変なデータ出さないで下さいよ?」 ツッケンドンに言いながら、公人にスポーツタオルを手渡した。 一応、心配して様子を見に来てくれたお返しの意味もあるようだ。 秋穂からスポーツタオルを受け取って汗を拭きながら、公人が重そうに口を開いた。 「って言っても、どこまでデータ取れたか知らないけど、今のままじゃだめだな」 「なにがです?」 「クルマだよ。空力とコーナリングの挙動が不安定だ」 「え? だってあんなに速く走ってたじゃないですか。タイム見ても悪い数字じゃなかったと思いますけど…?」 「タイムアタックならいいかも知れないが…。でもレースじゃ使えない。ま、紐緒さんなら判ってると思うけどな」 「紐緒さんも同じこと思ってたら、…爆発しかねませんね…」 「かもな…」 案の定、測定ブースにいる紐緒の表情は険しかった。 何度も何度もデータを解析させては、その結果に額に青筋を立てている。 横でサポートしている館林は、いつ爆発するか気が気でない。 紐緒の爆発の仕方は、ヒトにはあたらない。物にあたるのである。 公人がチームに来る前に、一度ピットに置かれていた交換済みのタイヤを思いっきり蹴飛ばして、足首を捻挫してしまったこともあった。 モニタに鉄拳パンチを食らわせて、左手に包帯を巻いていた事もあった。 持っているボールペンを握り折るくらいは普通にやる。 今日もそろそろ、手に持っているマグカップを地面に叩き付けそうになっていた。 それでも、壊したりしたものは、後で頭が冷えてからちゃんと自分で片付けるので、ビックリするだけでこれと言って実害は無い。 「おーい、紐緒さん」 測定ブースに公人がやってきた。 「なによ」 機嫌が悪い。 ギロリと睨みつける眼光は、公人でも一歩後ずさりしてしまうほどである。 「ちょっと打ち合わせしようぜ。データ解析済んでるんだろ?」 「組みあがったばかりで数字は期待してなかったけど、こうも悪いとね」 珍しく紐緒の口からため息が漏れた。 「俺なりにもどこが悪いか考えてあるから、調整で効く部分は今のうちにやっつけてしまおうぜ。時間が勿体無いからな」 「…わかったわ。5分したら裏のトランポに来てちょうだい」 そう言うと、紐緒は認証用のUSBメモリを持ってさっさとトランポへと向かってしまった。 「…案の定機嫌悪いな」 「ですねぇ。想像よりかなり悪かったみたいですから」 館林が、使いっぱなしのデスクトップ機を整理し始めた。 「こっちのデータだと、どこが悪いって出てた?」 「えーと、そうね、エンジン出力が想定より低いのと、ボディ剛性が足りない、ってところですか。サスの入力がボディ側に伝わっちゃって、ボディが歪んでますね。あと重心バランスも少し変えたほうがいいです」 解析結果を見ながら館林が答えた。 「俺の感想とだいたい似た感じか」 PCの画面を見ると、細かい表に赤い数字がたくさん並んでいた。 赤字は理論値より下回っている値である。ただし、テスト走行をしながら紐緒が適宜修正を加えていった数値に対してである。 「基本的には悪くないんですよ。シェイクダウンでこの結果は、普通は満足できるレベルです。でも勝てるクルマになってないんです」 数字を見ながら、館林も僅かに眉間にシワをよせた。 「まだ100%の性能出せてるとは思ってないけど、それでも7割くらいまでは仕上がってるんじゃないのか?」 PCの数字を見ても、公人にはさっぱりだ。 紐緒と館林、あと一部のスタッフくらいしか、この数値の意味はわからない。 「6割弱ってところです。でも今回紐緒さん、よほど出来に自信あったみたいですから、ショックは大きいでしょうね…」 「あ、高見くん。紐緒さん見なかった?」 話の途中で虹野がやってきた。 「て、…あ、話し中だった? ごめんね、邪魔しちゃったかな」 「いや、雑談してただけだから構わないよ。紐緒さんなら裏のトランポにいるんじゃないかな」 「あらら、そうなの?」 虹野の表情に一抹の不安の色が現れている。 普段測定ブースに入り浸っている紐緒が、テストの途中でトランポに居ると言う事は、虹野も知っている通り十中八九爆発モード状態になっているはずだった。 「5分したら俺たちもトランポ向かう事になってるんだけど、虹野さんもその時一緒に来ればいいよ。爆発も収まってるだろうし」 「うーん、そうね。そうさせてもらう」 あはは、と困ったような顔で笑う虹野だった。 公人より2周遅れて古式がピットに戻ってきた。 チームゆかりのピット前では、クルーたちが手を大きく広げて止まる位置を示している。 古式は停止線ピッタリにクルマを停めて、エンジンを切った。 ベルトを外し、車外に出ると、ヘルメットも脱いで大きく深呼吸をした。 「ゆかり、お疲れ」 朝日奈がペットボトルの飲料を持って近づいてくる。 「久しぶりの全開走行なので、ちょっとだけ疲れました」 はぁ、と小さく息を吐くものの、疲れている様子は見て取れない。 「トレーニングしてたとは言え、病み上がりなんだから無理しちゃダメだよ」 そう言って古式の手からヘルメットを受け取り、手に持っていたペットボトルを渡した。 最近お気に入りの、大手飲料メーカ製の緑茶のペットボトルである。煎茶と抹茶でにごりがどうのとかCMしているようなやつだ。 保温器で温めていたので、程よい加減の暖かさが心地よかった。 ふたを開け、両手で持ちながらくぴっと一口飲んで一心地付けた。 「お腹は? 空いてない?」 「はい、まだ大丈夫です」 「そっか。クルマ点検するって言うから、奥で休んでて。問題無ければまた走る事になると思うから」 「わかりました。それでは奥で休んでいますので」 「私もあとで行くからね〜」 パドックへ抜けるドアをくぐる古式の背中に、朝日奈がブンブンと手を振っている。古式も微笑ながら小さく手を振ると、ドアを抜けてパドックに設営された休憩所へと向かった。 パドックにはクルマを運んできた大型のトランスポーターが停められ、その横に休憩所が設けられていた。 今日は練習走行なのであまり手は込んでいないが、それでもテーブルはマホガニー製の組みたて式だし、椅子だって木製のしっかりしたものが並べられていた。テーブルにはしっかりとクロスまで敷かれている。 手近な椅子に腰掛け、テーブルに両手を載せると、そのまま「へなへなへな」とテーブルに突っ伏してしまった。 張っていた気が緩んで一気に疲れが出てしまったのだ。 「すっかり身体が鈍ってしまってます…」 小さなため息をつくが、あんまり深刻な雰囲気は無い。 「高見さんに置いて行かれますから、頑張らないといけませんね」 身を起こし、両手をグーにしてフンッと気合いを入れるも、すぐにまた、へなへなとテーブルに突っ伏してしまった。 「でも、ちょっとだけ休みます…」 冬とは言え陽射しがぽかぽかと暖かく心地が良い。古式はテーブルの上で両手を枕にして、小さな寝息をたて始めてしまった。 紐緒が召集をかけてから5分後、ピット裏に停めていたトランポに、公人をはじめ数人が集まっていた。 トランポの中は一見何事も無かったかのように見えるが、壁面に2箇所、真新しいへこみキズが出来ていた。 それを見て、誰もなにも言わない。いや、言えないと言った方が正しい。 席に座っている紐緒が左手をさすっているので、何が起こったかは想像に難くない。 「じゃあ、はじめるわよ。時間も無いから手早く進めるわね」 紐緒が手もとの端末を操作して、壁に掛けていた大型液晶ディスプレイに、ピット内端末に表示していた数値を表示させた。 先ほど同様、赤い文字が多い。 「この数値結果からだと、ボディ剛性とエンジン出力、それにフロントの空力も弱いって感じだけど、どうかしら?」 紐緒が指し棒でコツコツとディスプレイを叩いた。 口調からは、すでにいつもの落ち着きを取り戻しているようだった。 「俺もそんな感じだ。空力は200キロ超えたあたりから、フロントが浮いてくる感覚がある」 ハンドルを回すような仕草をしながら公人が言う。 「200キロでそれだと、計算より多くボディ下面に空気が流れてるな」 メカニックの一人が手元に配られた資料の数字を見つめながらそれに答えた。 ボディ下面と路面の間の空気層にさらに走行により空気が詰められ、空気が圧縮されて上向きの力を発生させているのだ。 「デフューザの流量と静圧は安定してるから、フロントリップを下げた方が良いかも知れないわね」 今度は女性メカニックの発言だ。やはり先ほどの走行の資料を見て、ボールペンで頭を掻いている。 先ほどのメカニックも、それに同意するように頷いた。 「ボディ剛性は今はどうしようも無いですよ。ガレージ戻ったら、変形ポイントを見ながら溶接個所を増やすか、バーを追加するか、ですね」 公人の隣の女性が手を挙げながら発言する。 ロングヘヤーを全部帽子の中に詰めこんでるので、トランポの中でも帽子を脱がずにいる。 見た目は華奢で小さな身体付きだが、こう見えてとても高い溶接技術の持ち主なのだ。 いまトランポの中に集められているメカニックたちは、紐緒が目を付けてチームに連れてきた中で、特に重要な部分を任されてる者たちである。 基本的にこのチームは、紐緒を筆頭にそれぞれのメカニックたちがその直下にいる体系を取り、紐緒の意思をダイレクトに反映させるような仕組みとなっている。 だがそれでもユニット毎にまとめ役を設け、紐緒一人に全ての負荷がかからないようにしているのだが、そのまとめ役となっている者たちが、このトランポ内に全員集まっているのだ。 ちなみに「まとめ役」と言っても責任者ではない。全ての責任は紐緒が背負っている。 これは、レース中に故障によりリタイアしても、そこを担当したものが責任を取らなくてよいようにとの、紐緒の配慮である。 整備やメンテナンスに責任感が無くなりいいかげんな仕事をしそうだが、そのような人物であれば、初めから紐緒に目をつけられなかったはずだ。 皆、勝つためにこのチームに集まっている。何が必要か、何をしなければならないかは理解している者たちなのだ。 「エンジンは上のほうで伸びが急に悪くなる。中速あたりでトルクが太くて、さらに回すとダラダラした感じになる。もう少しリニアにならないか?」 「エンジンの問題個所は、さっき判った。20分くれれば数値通りの出力が出せる」 エンジン担当が紐緒と公人に言う。 紐緒はどこが悪かったかは聞かない。ただコクリと頷くだけだ。 「30分でどこまで戻せるかしら?」 「空力はリップを下げるだけだが、10分くれ。軽くシミュレーションに入れてみたい」 「ボディはさっき言った通り、ここじゃどうしようもないから、要所にセンサー取り付けさせてください」 「電装系は特に問題は無さそうだな」 「冷却系もOKだ」 「わかったわ、30分後にテスト再開。今日中に80%まで仕上げるわよ」 紐緒が締めくくると、皆ぞろぞろとトランポから出て行った。 「あ、高見君は残って。話があるから」 「うぐ、了解…」 皆が出て行き、入れ替わるように虹野が入って来た。 パタンとドアを閉め、中からカギをかけた。 「カギまでかけるとは、穏やかじゃないな」 「念のためよ。あまり深い意味は無いわ」 カチカチとノートパソコンを操作しながら紐緒がちらりと虹野を見た。 虹野も何の話があるのか聞かされていない。きょとんとした顔で入り口側に立っていた。 「さて、と。じゃあ本題に入るわね」 ノートパソコンを閉じ、つかつかと公人のそばまでやってきた。 机に寄りかかり、前髪をかき上げる。普段ほとんど見えない右目がちらりと見えた。 「藤崎詩織、知ってるわね?」 「詩織? 知ってるけど、どうかしたのか?」 紐緒の口から意外な人物の名前が出たので、公人も少し驚いている。虹野も無意識に反応していた。 「詳しく教えてもらえないかしら」 「詳しくって…、幼なじみで高校まで一緒でって、まぁそのくらいしか。でもなんでだ?」 「必要だからよ、彼女が」 「「は?」」 公人と虹野。口にしたのは同時だった。 「ちょ、ちょっと待ってくれよ。詩織に何をさせようって言うんだ?」 「広報活動よ。GTに出るなら表に出る顔が必要だわ。見た目は充分だし、調べたら頭も良いようね。文句無しだわ」 思惑通りとばかりに、紐尾はにやりと笑った。 だが公人は納得がいかない。 「広報の顔なら虹野さんだっているし、他にもスタッフで技術のわかるきれいな子いるじゃないか。なんで詩織なんだよ」 「適材適所。技術力あるのに他の仕事させるわけには行かないわ。それに、マネージメントに関しては虹野さんを置いて他に適任者はいないの。わかる?」 紐緒は虹野にも視線を巡らせた。 意見を求めているようだ。 「高見くんは、藤崎詩織さんのこと、下の名前で呼ぶんだ」 「ああ、まぁ、小さい頃からそう呼んでるからな」 虹野の表情が僅かに暗い。紐緒は気付いているようだが、公人は気付けなかった。 「まず最善策からあたるのが私の主義なのは、知っているでしょう?」 「うん。でもちょっと、気持ちの整理が、ね。話は進めて良いから。ごめん、私もう行くね」 カギを開けてのろのろとした動作で出て行ってしまった。 ドアが閉められ、トランポ内がしんと静まる。 「どう言うつもりなんだ? 他意が無いとは言わせないぞ」 「無いわよ。あなたの幼なじみだからって、それで決めるような私じゃないわ」 確かにその通りだった。 公人は大きくため息をつくと、紐緒のしているように、テーブルに寄りかかって腕を組んだ。 エンジン音が響くのが聞こえた。エンジンのメンテナンスに入っているらしい。 「詩織が首を縦に振る勝算はあるのか? ああ見えて意外に頑固だぞ」 横目で紐緒を見る。表情は伺えない。 「無ければ始めから考えないわよ」 「俺は、詩織に言う気は無いからな」 「それも判ってるわ。この件についても私が自分で動くから心配しないで。むしろ、あなたには動いて欲しくないから話をしてるのよ」 紐緒は言い終わると机から離れ、腕時計を見ながら出口へと向かった。 「そろそろメンテナンスが終わる頃だわ。あなたも仕度をしてちょうだい」 出口のドアが開き、紐緒が公人にも外に出るように促すと、公人は素直に従った。 紐緒の脇を通り過ぎる際、紐緒が小さな声で言った。 「心配する気持ちも判るけど、私が今まで悪いようにした事があった?」 思わず足を止める公人にかまわず、紐緒はさっさとピットへと向かって歩いて行った。 後ろ姿を見送りながら、公人も小声で呟いた。 「確かに…」 聞こえたのか偶然か、紐緒はちらりと公人に一瞥をくれてピットに入った。 入れ替わりになるように、秋穂が向かってくる。 「高見さん、何やってるんですか。そろそろメンテ上がりますから、さっさと仕度して下さい」 「ああ、わかってる。で、どんな感じなんだ?」 上半分を脱いで腰に巻きつけていたレーシングスーツを着直しながら尋ねた。 「良い感じですよ。館林さんも、予定通りの数値になりそうだって言ってました」 秋穂の顔も満足そうな表情が浮かんでいた。 「そか。じゃ俺も頑張らないとな」 「当然です。ドライバーは『勝ってくる』のが仕事なんですから」 あはは、と秋穂が笑い、つられて公人も表情を緩めた。 「って言うか和んでる場合じゃなかった。ほらほら、早く急いでください〜」 秋穂に腕を引かれるようにして、公人もピットに入る。 クルマはすでにボンネットが閉められ、エンジンに火が入った状態でピット前に停められていた。 その向こうを、古式のGT‐Rがゆっくりと通り抜けていった。 「…、また、レースになりそうな予感がする」 ベンチに置いていたヘルメットを手に取った公人に、秋穂がため息混じりに言った。 「ま、その時はその時だ。さっきと違って、クルマの調子も戻ってるはずだしな。それより、もう誰も乗らないんだよな?」 「わわわわ私はもういいですし、乗るならシャシー担当のほうが…」 ちらりと横目で姿を探すが、すでに逃げた後だった。 「いや別に秋穂に乗れとは言ってないぞ」 「あ、あのー、高見くん」 ピット奥から虹野が声をかけて来た。 胸元には、両手で抱えるように真っ白なヘルメットを抱いている。 先ほど秋穂がかぶっていたものだ。 「わたし…、が乗っちゃダメかな…?」 「え? 虹野さんが?」 「ダ、ダダ、ダメに決まってるじゃないですかっ。危ないんですよ? 危険なんですよ? 時速200キロとか平気で超えるんですよ?」 秋穂が慌てたようにグイグイと虹野をピット奥へと押し戻していく。 「でもでも、私レーシングカーって良く判らなくて、やっぱり体験してみないと、この先ダメだと思うの」 「そんなぁ。ホントに、ものすごい事になるんですよ?」 「怖いけど、高見くんなら、平気、かな」 はにかんだように笑った。 「ダメだ、と言う理由は無いわ」 ピット奥のブースから紐尾まで出てきた。 あまり賛成出来ないのかため息混じりだが、呆れたような表情はしていない。 「高見君、彼女のこと、頼んだわよ」 「…今度はホントに手加減出来ないぞ?」 コース上には古式がいた。 タイミングをずらせば先ほどのようなレースになることはないだろうが、それでも手加減した走りではいずれすぐに追いつかれる。 「私の事は構わなくていいよ。どうしてもダメなら、…気絶しとくから…」 「いい覚悟だわ。秋穂さん、虹野さんのベルト締めて上げてちょうだい」 紐緒は意味深な笑みを公人に送りながら、再びブースへと戻って行った。 他のスタッフたちも、ポツポツと奥から戻り始めている。 「高見さん、ほんっっとにお願いしますね」 秋穂は半ば半べそだった。 「うわー、なんか心臓ドキドキ言ってるよ〜」 ピット出口までクルマを進め、スタッフのコース確認待ちをしている車内で、虹野が5点式シートベルトのクッションを握りながら呟いた。 「ベルト、苦しくない?」 公人がちらりと虹野を見ると、虹野は小さく首を振った。 「ううん、大丈夫」 秋穂が心配しすぎてちょっとキツク締めてしまったので、胸元が多少窮屈だったが、苦しくなるほどではなかった。 ちなみに公人は6点式のベルトである。下半身もある程度ホールドできるためだ。 「手加減できないけど、気持ち悪くなったり、どうしても無理な時はすぐ言ってよ。我慢したっていい事無いんだから」 「うん、わかってる」 今度は縦に頷いた。 ピット出口でスタッフが大きく手を振った。古式のマシンが走り去って、ちょうど半周分の余裕が出来るタイミングだ。 「じゃ、いくよ」 強烈な加速Gが虹野を襲った。 そしてすぐに横Gが襲いかかる。 目の前の景色があっという間に次から次へと入れ替わり、遥か遠くだと思っていたコーナが一瞬で近づき、視界の隅では色の付いた何かが物凄い速度で流れて消えていった。 車内には轟音が響き、ヘルメット越しでもその音量は容赦が無い。イヤーマフをしていても頭に響く音だった。 いつもであれば、公人も最初の周回はゆっくり走るのだが、今回は古式が同じようにコースを走っている関係で、最初からほぼ全開で走っていた。 虹野のためにドライブする余裕は無い。 「っっひゃ、うっ」 踏ん張ってはいるのだが、急激な横Gの変化で、虹野のヘルメットは右へ左へと振られっぱなしだった。 強烈な横Gで振られるのはヘルメットだけではない。高速コーナでは身体の血液すらも遠心力で偏ってしまう。 このコースではコーナも短時間でクリア出来るが、それでも高速コーナの2コーナでは虹野も目の前の視界が狭くなり平衡感覚までも狂いそうになった。慣れないと貧血を起こしてブラックアウトしてしまう事もある。 バックストレートに入り一気に加速していくと、周囲に茂る木々も緑色の風としか認識できない。 コーナが近づきブレーキングポイントで一気に減速した。虹野の身体にも容赦無くシートベルトが食いこみ、息も出来ないくらいだった。 リアが細かく左右に揺さぶられるのを公人はうまくなだめつつ、コーナに入っていく。 路面の細かな継ぎ目や段差がさらにボディを揺さぶるが、レールに乗ったように安定してコーナをクリアしていく。修理前のクルマとはもう別物だった。 『調子はどうかしら?』 紐尾から通信が入った。公人がクルマの安定感を確信したのとほぼ同時。見ていたようなタイミングである。 「いいね、さっきよりしっくりくる」 『こっちの数値も安定してるわ。データを集めたいから、虹野さんには悪いけど続けて5、6周まわってきてちょうだい』 「わかった」 「私なら、…だい、じょうぶ」 紐緒の無線を聞いていた虹野が、シートベルトのクッションパッドを両手で掴みつつ、両膝を擦りながらどこかもぞもぞとしていた。 虹野のヘルメットのマイクは無線機にはつながっておらず、車内での会話用である。 声は紐緒にはもちろん聞こえていなかった。 「……ホントに大丈夫なのか?」 公人のマイクのスイッチは切っている。次のコーナが近づいているので、横目でちらりと虹野の様子を確認したが、息こそ荒いようだが気分が悪いといった様子は無い。 虹野はヘルメットのバイザーを開けているものの、フルフェイスなので表情はあまり伺えない。 それでも、目つきがどことなく潤んでいて、なんとなく頬が上気していたように見えた。 「うん…、なんか変な感じ。…ちょっと気持ち、いい…かも」 「え?」 「え? あああ、う、ううん、なんでも無い、なんでも無いよ! 大丈夫、全然気持ち悪いとかそう言うの無いからああううう〜」 ホームストレート手前の左右に切り返す高速シケインで、やっぱり左右にヘルメットごと振られつつ、なんとなく妙な雰囲気の虹野だった。 続く |