歳が明け、三ヶ日も過ぎチームの年末年始休暇も終わりかけたある日の事だっ
た。
「あ、おはよー」
チームの事務所に、朝早くから虹野がやってきた。まだ休み中なのだが長くガレー
ジを留守にするのがイヤなので、用の無い時は休みでも事務所の片付けなどをしに
来ていた。
声をかけたのは、すでに紐緒が事務所でノートパソコンを使ってなにやらやってい
たからだ。
紐緒も休みの時はよくガレージにやってきている。事務所で文字通りゴロゴロして
いる時もよくあった。
だから紐緒が居たのはいつもの事務机ではなかったが、虹野は特に気に留めな
かった。
室内はちょっと暖房が効きすぎているくらいだったが、紐緒はお構いなしに作業を
続けている。
「ああ、おはよう。新年会でも挨拶したけど、今年もよろしくね」
「うん、こちらこそ、今年もよろしくお願いします」
上着を脱いでハンガーに掛け、給湯室に向かいコンロにヤカンをかけた。
「お湯なら沸いてるわよ」
紐緒が保温ポットをアゴで指した。彼女のPCの横には、まだ湯気ののぼるマグカ
プも置かれている。
「あ、ほんとう? うん助かる」
ガスを止めて冷蔵庫からココアの缶を取りだし、マグカップにスプーンでココアペー
ストを入れ始めた。
「今日は紐緒さんもクルマで来てたのね」
虹野が駐車場に入ってきたとき、すでに一台のクルマが止まっていた。
オレンジ色の日産マーチが紐緒の愛車である。誰もが似合わないと思いながらも、
本人はいたくお気に入りなのだ。
もちろん紐緒チューンが施されていると思いきや、ホイール以外は全くのノーマル
である。
ただボディにはしっかりと特殊コーティングがされていて、いつ見てもピカピカな外
観を保っていた。
「たまには乗らないとかわいそうだから」
チームのガレージは交通の便がよいので、通常は皆クルマではなく公共の交通機
関を使ってやってきている。
特にクルマで来る事は禁止してはいないが、ちょっとした用があったり荷物があっ
たりした時などを除いて、あまりクルマで来る事は無い。
「それに、これを持って来たかったのよ」
コンコンと作業をしているテーブル板を叩いた。
事務所は決して広いとは言えないが、それでもチーム員の半分が座ってもまだ余
裕のある程度の広さはあった。
そんな事務所の一角に、紐緒はちゃっかりとコタツを据え付けてしまったのだ。
それほど大きいコタツではない。でも4人が入っても十分な大きさだ。
部屋の角に据え付けたため、紐緒はちょうど壁を背もたれ代わりにして座ってい
た。
事務所は元々土足厳禁できちんとカーペットが敷かれていたが、どうやって運び込
んだのかコタツの下には吸湿シートとタタミが3畳分敷かれ、その上にわざわざ厚手
のカーペットを敷いている。
簡単に「持ってきた」と言う割りには手が込んでいた。
「コタツって、入ったら出られなくなるよね」
そう言いながら虹野は紐緒の正面にもそもそと入りこんだ。
ふーっと脱力したあと、コタツの上に置かれた保温ポットを引っ張り寄せて、マグ
カップに注いだ。
まずは少量注いでココアを溶かし、緩いペースト状になったところで、半分くらいま
でお湯を継ぎ足した。
「あれ、紐緒さんのインスタントコーヒーじゃないの?」
クルクルとスプーンでカップの中身をかき混ぜながら、ひょいと紐緒のカップの中身
を覗きこんだ。
見た目でわかったわけじゃなく、立ち上った香りでわかったのだ。
「豆を挽くのが面倒くさかったのよ…」
珍しく言いよどんだ。バツが悪そうに、ノートPCの向こうから上目使いで虹野を見て
いる。
「もー、面倒ってちゃんと自動のコーヒーミル用意してあるじゃない」
「私に豆の種類がわかるわけが無いでしょう?」
「好きなの使えばいいの。開けてみて香りが気に入ったのを使えばいいのよ」
虹野は簡単に言うが事務所に置いてあるコーヒー豆は10種類ほどある。
いつも虹野は数種類をブレンドして淹れているが、日によってちょっとづつ調合を変
えたりする。
しかも「香りが無くなる」と言って、2、3日分づつを豆からミルで挽いているので、粉
の状態でストックしてある事はほとんど無い。
さらに年末年始の休みに入り1週間ほど事務所を留守にするので、あまった挽いた
豆は虹野が全部持ちかえってしまっていた。
台所事情に全く疎い紐緒が、どの豆を挽けばよいのか、判る筈も無かった。
「もう、しょうがないなぁ。ちょっと待ってて、今豆挽いて用意するから」
そう言って立ち上がろうとする虹野を紐緒は制した。
「それ飲んでからでいいわよ。私もまだコーヒー残ってるから」
「でも…」
「インスタントはインスタントで悪くないわよ。集中してる時は逆に香りが気になること
があるわ」
「そういうものなの?」
「いつもじゃないけれどね」
そう言ってコーヒーを飲みながら、紐緒はちらりと壁掛けの時計を見た。
時刻はもうすぐ10時半になろうとしている。
「…そろそろね」
呟きが虹野の耳にも届いた。
「ん? どうしたの?」
同時に事務所のドアが開いた。
「おーい、紐緒さん、用ってなんだ?」
声をかけながら公人が事務所に入ってきた。
「あ、高見くん、あけましておめでとう」
虹野がコタツから出て畳に手をついて新年の挨拶をした。新年会でも挨拶を交わし
てるのだが、こんなところが虹野らしい。
「え? あ、明けましておめでとう、今年もよろしく」
反射的に応えてしまう公人だ。
「休みなのに悪かったわね」
コタツから出ずに、むしろ潜りこむような格好で紐緒が続ける。
「いや、家にいてもヒマだったからな。って言うかコタツなんていつ持ち込んだんだ?」
公人の質問には無言で答えた。
「高見くんはコーヒーがいい? ココアがいい?」
いつのまにか給湯室から虹野が顔を覗かせていた。
「えーっと」
ふと紐緒と目が合った。ちょうど紐緒は虹野から死角に入っているのだが、それを
知ってか公人に目配せして小さく首を振った。
それの意味するところは、コタツの上のまだ湯気の昇っているマグカップの中に
入っているもの、ココアにしとけというものだ。
コーヒーなんて言うと間違い無く豆を挽き始めてしまう。虹野にインスタントコーヒー
と言う選択肢は無い。余計な仕事を増やすなと言うのだ。
「じゃあココアで」
「りょうかーい」
さらに紐緒が自分を指差した。
「紐緒さんもお願いだって」
「はいよろこんで〜」
なんだか上機嫌である。
「自分で言えばいいじゃないか」
紐緒の斜め右隣に座って小声で言うが、紐緒はしれっとした表情で、
「立ってるものはなんとやら、よ」
目線を向けただけだった。
ほどなくして、虹野がマグカップを二つもって戻ってきた。
「紐緒さんのマグカップ使っちゃってるから、予備ので持ってきたね」
コタツの上の電気ポットからお湯を入れて、ココアペーストを練り始めた。
「で、何の用で呼んだんだ?」
公人が再度尋ねると、紐緒は何かを思い出したような表情で公人を見た。
上着のポケットからクルマの鍵を出して、
「トランクにミカンが入ってるのよ。悪いけど持ってきてくれないかしら」
鍵を渡した。
「…これが用ってわけじゃないよな?」
「当たり前でしょう。戻ったらちゃんと話すわ」
渋々と立ちあがり、備え付けのサンダルを突っかけながら、公人は事務所から外に
出て行った。
くるくるとマグカップの中身をスプーンでかき混ぜながら公人の後ろ姿を目で追って
いた虹野だったが、公人がドアから出て行くと紐緒に向き直った。
「何の用だったの?」
「今年出場するレーススケジュールと、トレーニングの打ち合せよ。私がさっさと決め
てしまえば楽なんだけど、ドライバーの意見も聞いておきたいと思って」
最終的な調整は、主要スタッフを交えてレースカーの開発日程や整備状況などを
踏まえて行われる。
昨年は公人が途中からチームに加わったので、チーム側の都合で作ったスケ
ジュールの中で動いてもらっていたが、今年は主軸としてスケジュール立案にも参
加させようと言う紐緒の思惑があった。
「でも、今年から参戦予定なんでしょう? GT選手権には」
「ええ。フル参戦するつもりよ。本当はいきなりGTワールドカップに出てもいいんだけ
ど、格式の高いレースの雰囲気に、みんなも慣れておく必要があるわ。だから、GT
はほんの小手調べよ」
珍しく鼻息の荒い紐緒だが、虹野がふと疑問をぶつけた。
「GTワールドカップに出たら、その後どうするの?」
「もちろん、出続けるわよ」
「でも、その上は無いんでしょ?」
「今は無いわね。まぁ、伊集院財閥のほうで考えるかも知れないけど」
ふーん、と言った顔で虹野は出来あがったココアを紐緒に渡した。
「と言っても、今の私たちじゃGT選手権でも何勝できるか…」
ほう、と紐緒が息を吐いた。常に自信の塊のような彼女だが過信はしない。今の
チーム力と公人の運転技術を考えても、快勝なんてことは無い。
今のチームの戦力では、おそらくフル参戦しても精々1勝か2勝がいいところだと紐
緒は勘定している。逆にいえば初参戦でも成績は残せると踏んでいるのだ。
GTWへの出場権を得るにはある程度の成績を残さねばならないのだが、色々な
形での出場権枠の中で、GT選手権での総合優勝が最も近道な手段だった。
GTWに参戦できるチームは、毎年固定ではない。成績の下位なチームは落され、
出場権を得たチームが新たにGTWへと上がっていく。
興行的な側面から、常にレースをエキサイティングなものにしているためでもあるの
だが、やはりより強く速いチームが最高格式のレースに出場するのも当然である。
「見えてきたけど、やっぱり遠いんだね」
「当たり前よ。そうじゃなきゃ目指す意味が無いわ」
紐緒がPCから顔を上げると、虹野はマグカップを両手で抱えながら笑みをうかべて
いるように見えた。
それから少しして公人が戻ってきた。
「…10キロもある箱が3箱とは聞いてないぞ」
「言わなかったもの」
事務所の入り口のドアの脇に3箱、積み上げも公人が一人でやった。
「籐籠の用意しないとね」
と、給湯室へ向かう虹野と入れ違うように、公人は再びコタツに入った。
「悪かったわね、助かったわ」
「いいよ、トレーニングにもなる」
給湯室から籐で編んだ籠を持ってきた虹野は、一番上のミカン箱からミカンを籠に
山盛りに載せてコタツに戻ってきた。
「あのまま置いておいても大丈夫かな?」
「あのあたりはパーテーションで仕切ってるからそんなに暖房もあたらないし、大丈夫
じゃないかな。休みが終わってみんなが来れば、あっという間に無くなると思うよ」
「そう、もって来た甲斐があるわ」
「それで、用ってなんだ?」
「今年の年間計画の話をね」
どこからか引っ張り出してきたVGAケーブルをノートPCに差しこみ、コタツの上に
あった小さなリモコンのボタンを操作すると、事務所のブラインドが閉じ、打ち合せエ
リアに設置している大型液晶パネルにPC画面が現れた。
「コタツをこんな中途半端な位置に設置してたのは、このためか?」
「…打ち合せエリアのパーテーションも動かしてるわよ」
「紐緒さんは自堕落になり易そうだな」
「自覚はしてるから大丈夫よ」
大型ディスプレイに表示されたスケジュール表は、市販のスケジュールソフトを使
用したものである。
紐緒ならプログラムを組めない事は無いのだが、別に使い難いわけでもないし機能
的にも大きな不足も無いし、第一いちいち作ってる時間が勿体無い、と言う事で別に
文句も言わずに市販ソフトを使っているのである。
スケジュールは一月を3つに分け、それが12ヶ月分並んでいる。3月末から10月ま
で太い矢印が引かれ、その下にやや細い矢印が10本、さらに下に細かく矢印と指示
が記載されていた。
太い矢印はGT選手権の開催期間を表し、その下の矢印は先端がレースの開催
日、起点はレースに向けての全体調整期間開始日になっている。
一レースを終えたクルマは、エンジンとミッションケースを下ろして分解整備して組
み立て治し、ハンドルや足回り、ボディ、電装系も毎回入念にチェックされる。
複数台のクルマを作ってローテーションさせれば点検などに費やす時間も増えるの
だが、整備に割く人員に余裕が無い。
しかもGTに出場するクルマは必ずシリーズ毎に車検を通過させねばならず、大破
しない限り予備を含めた2台以上のエントリーは認められていないのだ。
レース期間は7ヶ月と長いようで実は短い。もたもたしてると整備と調整で一ヶ月な
んて簡単に過ぎてしまう。
それにこの期間はレースだけしてればよいわけではない。次期のためにレース車
の開発も進めなければならない。
それにGT選手権1本に出場を絞っても、イベントレースへの参戦要請が入ることも
ある。
昨年、初エントリーでいきなりレベルの違うバトルをするなど派手なパフォーマンス
を見せたために、知名度も上がっているのだ。
「結構、余裕無いんだね」
「そうね、スペアカーの用意もあるし、手は足りてないわ。最初の3戦くらいは苦しい
レースになるかも知れないわね」
「GT選手権は5月からのもあるだろ」
GT選手権は年に2回行われる。開催期間はダブってしまうのだが、使用サーキット
と開催日をずらす事で調整している。
「考えたけど、そうやって伸ばしても結局は一緒よ」
「でも、このスケジュールだと、レースカーは2月中頃には完成してないと厳しいん
じゃない?」
「目処は立ってるわ。テストもまだ週刻みで何回もやる予定だし、この間の結果は全
てフィードバックしてあるわ」
「事務手続きはどうなってるんだ?」
「それなら大丈夫。年末にちゃんと書類出して、受理されてるから。あとは各レース
毎に細かい手続きはあるけど、任せておいて」
虹野がどーんと胸を叩いた。
「とりあえず、順調ってとこか?」
「当然よ。そうじゃなきゃ困るわ」
公人も交えて3人でスケジュールを打ち合せたが、当初のスケジュールに特に不
備も無いので、紐緒は大型液晶パネルの画面を消し、ブラインドを開けた。
さらにしばらくノートPCをいじっていたが、じきにふたを閉じた。
「さて、と。スケジュールの話は終わり。別の話もしたいんだけど」
ノートPCをコタツの上から床に置き、コタツに潜りこみながら紐緒がそう宣言した。
もぞもぞと肩までコタツ布団をかぶせ、テーブルにアゴを乗せると
「はふ〜〜〜」
と全身で脱力している。
どこと無く幸せそうな表情だ。
「本当は掘り炬燵にしたかったのよ」
「奥の休憩室ならともかく、事務所を改造しちゃだめだよ」
「そうね、諦めるわ。今は」
「「今は?」」
紐緒なら知らぬ間にこっそりとやりかねない。
「今もあともダメだよ」
虹野がたしなめた。
「で、別の話ってなんだ?」
「例の広報の話よ」
虹野の眉がピクリと動いた。
「ああ、そのことか」
「なにか知ってそうな雰囲気ね」
「正月に詩織が家に挨拶しに来て、その時聞いた。まさか去年のうちにその話をして
たなんて、ちょっと驚いたよ。その時はまだ返事してないって言ってたけどな」
「あ、あ、挨拶って…」
慌てているのは虹野である。公人に詰め寄るようにして身を乗り出していた。
「新年の挨拶だよ。家は隣だし去年は色々世話になったから〜、って」
「そ、そんな話聞いてないよ?」
「まぁ一昨年くらいまで留学してたらしいけどな。って、虹野さん、なんでオレを睨んで
るんだ?」
「う、ううう、に、睨んでなんかないもん」
ほほを膨らませてそっぽを向いた。
公人は困惑気味にほほを掻いている。
二人の話が終わったと判断した紐緒が、再度口を開いた。
「詳しい話は後で聞くとして」
「ちょ、聞くんかい」
「実はもうすぐ藤崎さん、ここへ来るわ」
珍しく虹野がココアを吹いた。
幸いか生憎か、正面にいる紐緒に吹きかかることは無かったが、テーブルの上は
ココアまみれだ。
「ご、ごめんなさい、いま拭くもの持ってくるから」
慌てて給湯室へ駆けて行った。
公人は後ろ姿を目で追っていたが、給湯室に入って見えなくなると、紐緒に向き
直った。
「別に呼ぶ必要も無かっただろ」
「藤崎さんの方から、ガレージで話したい、って言って来たのよ」
「詩織もどう言うつもりなんだか」
「さぁ。どちらにしても、そろそろ来る時間よ」
パタパタとスリッパを鳴らして、虹野が台拭きを濡らして帰ってきた。
「ホント、ごめんなさい。突然だったからビックリしちゃって」
あたあたとしながらコタツの上を拭いている。
「紐緒さんも高見くんも、カップの中身換えて来るね。私のココアが混じっちゃっただ
ろうし…」
コタツの上を拭きながらマグカップを回収しようとするが
「そのくらい気にしないわ」
紐緒がマグカップを自分の方に寄せた。
伸ばしかけた手を引っ込めて、虹野がちらりと公人のほうを見た。
「俺も別に、このくらいは気にならないから」
やっぱり伸ばしかけた手を引っ込めたが、表情がちょっとだけ不機嫌なご様子だ。
「……、ちょっとは気にして欲しいんだけどなぁ…」
小声でポソポソと言っていただけだったので、公人の耳では良く聞き取れなかった
ようだった。
続く
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