最終コーナ。 公人は当初の予定通り、古式がたどるラインよりも僅かに内側のラインに鼻先を向けた。 多少無理矢理気味に突っ込んでいるので、タイヤが耐えきれずに鳴き始めているが、それでもラインを乱すほど滑らせてはいない。 古式は最終コーナと1コーナでクルマギリギリ1台分のすき間を開けたラインで走行している。 一見付け入る隙があるように見えるが、古式の独特なドライビングに惑わされてなかなか気がつくことは出来ない。 公人も試しに古式のラインをトレースしたことによってようやく判ったことだった。 ただそのすき間はクルマギリギリ1台分。しかもほんの短い間だけである。 しかし試してみる価値はあった。逆に言えば、それしか抜く手が無かったとも言える。 針の穴を通すような狭いすき間と言えば大げさだが、わずか数センチ右に古式のクルマ、逆側数センチにはコンクリートウォール、一瞬でも操作を誤れば確実にどちらかにヒットする。しかも仕掛けてしまってる今、ここで抜けなければ次はない。 失敗すれば1コーナから先は間違いなく古式はこのすき間を詰めて来るはずだ。 だがコーナリング速度は公人のクルマの方が文句無く上である。これで抜けなければ公人の腕が悪い。 古式のクルマが少しづつアウトに逃げていく。 公人のクルマは逆に鼻先をさらにインに切り込んでいく。決して楽なラインではないが、それほど無茶なライン取りでもない。 そして古式のクルマとコンクリートウォールのすき間に出来た僅かな空間に、公人はクルマを滑り込ませた。 全て公人の予想通りに事が運んだかに見えた。 「じゃあ詩織ちゃん、そろそろゴールだから準備のほうしておいてね。わたしは一旦コントロールタワーに戻るけど、表彰式の前には帰ってくるから」 美樹原がそう言って立ち上がった。 ゴール前後は忙しいのでスタッフ総出となるためだ。美樹原とて例外ではない。 「あ、うん…」 と詩織も返事をするものの、心ここにあらずといった感じだった。 美樹原の言ったことも頭に入ったのかどうか怪しい。 「詩織ちゃん、大丈夫? しっかりしてね」 原因は美樹原にもあるのだが、その口調から判断するに、ほとんど気にしていないか、気づいていないかのどちらかのようだ。しかし詩織が公人との事を口先だけでも否定している以上、美樹原が気に病む必要は無い。 そう考えているのかどうかは定かではないが、美樹原の振る舞いはいつもより少し明るい。 ひょっとするとただの照れ隠しなのかも知れない。 「う、うん。ごめん…なさい」 詩織が力無くそう言ったとき、事務所内が急に騒がしくなった。 「あら? どうしたのかしら」 美樹原が驚いてスタッフの一人を捕まえて聞こうとすると 「あ、美樹原さん、事故です、ホームストレート上で1台クラッシュ、フルコースコーションなのでとりあえずペースカー出ます」 慌てた調子で一気にそう言い終えると、そのスタッフはコントロールタワーへ駆けていった。 「え…」 事故の2文字を聞いて詩織の顔が一気に青くなった。 ホームストレート上での事故。先日の公人の事故の記憶が一瞬にしてよみがえる。 「美樹原です、事故ですか? 状況をお願いします」 急いで美樹原は無線で状況の確認に入った。ホームストレートであれば、レスキューは事故が起きた瞬間から動き始めているはずである。事故処理は美樹原の仕事ではないが、その後の当該チームなどとの連絡や調整業務などは美樹原などが中心となって動いている。休憩時間中とは言え、すぐに詳しい状況を入手してチームに連絡する必要があった。 詩織はテーブルの横で立ち尽くしていた。 美樹原の無線機に向かって話す言葉の中から無意識に公人の名前を探している。 美樹原も詩織や他のスタッフに配慮してか、通信内容を復唱しないで通信を終えた。 「詩織ちゃん」 あらたまった顔で美樹原は詩織に向き直った。 「わたし、仕事が出来ちゃったから行かなくちゃならないけど、大丈夫、高見くんがクラッシュしたわけじゃないから」 静かな声で云うと、小走りにコントロールタワーへと向かっていった。 事故でクラッシュしたクルマは、ホームストレートのピットウォールとは反対側の壁にボンネットを削られ、上下逆さまにひっくり返って停止していた。 すでにレスキューが駆けつけてドライバーの救出と事故処理、後続車両の処理を行っていた。 クラッシュしたクルマはインテグラType R。チームゆかりのクルマだった。 先刻、美樹原は「公人がクラッシュしたわけではない」と言っていたが、古式のクラッシュの初期段階で実は公人も巻き込まれている。 しかし最小限の接触程度に留まったため、走れなくなるような致命傷には至っていない。 公人が最終コーナで鼻先をインに開いたすき間に突っ込んで、並びかけたその時、突然古式がイン側に寄ってきた。 これが直接的な事故のきっかけである。ただし、古式は故意にインを締めようとしたワケではない。 ついさっき、最終コーナ進入のブレーキングの時は公人が真後ろにいたはずなのに、それからほんのわずか視線を前に向けているうちに、いつの間にか後ろにはいなくなっていた。 その直後、左側にクルマが見えた。それが公人だった。 ほんの僅かなすき間を狂い無くクルマを操りながら通り抜けようとしている。 まさかこんなところを通り抜けられるとは古式も思っていなかったので、慌ててすき間を広げようとしたが、それがきっかけで挙動が不安定になり、インに切り込んでしまったのだった。 公人のクルマのダメージはこの時のもので、まず右フロントのフェンダーを当てられ、その衝撃で左にスライドして左フロントの角を壁にこすり当てて壊している。 だが公人はここまでで済んだ。 問題は古式だ。 公人のクルマに当たって逆にハンドルを切ったため、外側の壁に向かって一気に吹っ飛んでいった。 さすがに古式もそのまま壁に当たるまでボーっとしているコトもなく、すぐにカウンタをあてているのだが、既にコントロールを失っていたクルマは舵を受け付けず、そのまま斜めに壁に当たり3度横転してルーフを下にして停止した。 車内にロールケージが張り巡らされているとは言え、3度の横転は車体に大きなダメージを与えている。 身体を包み込むような形状をしたバケットシートと幅3インチの4点式シートベルトのおかげで、ハンドルに胸を打ちつけたり、横転の際に身体をボディ内側にぶつけると言ったことはほとんど無かったのだが、事故の衝撃はまともに受けているはずである。 ましてや横転だ。いつガソリンが漏れて、それに引火するかわからない危険な状態だった。 もちろんレスキューは即座に動き、事故発生から30秒後には古式をクルマから引きづり出し、救出を終えている。 クルマから出されるとすぐにタンカに乗せられ、そのまま緊急医療班により運ばれていった。 「こ、古式さんっ?」 左フロントを壁から引き剥がしながら、公人はミラーで古式の事故の一部始終を見ていた。 信じられないと言った風に呆然とミラーを見つめている。 もちろん走ることに集中していない分、アクセルを踏む足にも力が入っていない。 「高見君、なにをボーっとしているの? とにかく前を向いて走りなさい、フラフラしながら走ってるのがピットウォールからでも見えるわよ」 冷静な紐緒だが、内心はかなり動揺している。目の前でこんな大事故を見たのは初めてだからだ。 もちろん虹野も初めてなのだが、紐緒と違い、驚きで固まってしまっている。 「くそっ、こんなことになるなら仕掛けなけりゃよかった! ちくしょう!」 公人はとにかく自分が腹立たしかった。 自分の追い抜きがきっかけとなり、古式がクラッシュしてしまったと思っているためである。 実際は慌ててしまって一瞬の操作ミスをしてしまった古式に原因があるのだが、そんなことまでは公人には判らない。 「高見君、これはレースよ。事故は付き物として割り切りなさい」 どうも紐緒なりに気を使っているようだが、いかんせん他人に対して気を使ったコトなどほとんど無いので、口調はいつも通りのドライな言い方になってしまっている。 「判ってるけど…、でも」 ダン、とハンドルを叩く音が無線から聞こえた。 「高見さん注意して下さい。フルコースコーションでペースカーが出るみたいです」 落ちついた声で秋穂が公人に注意を促した。レース慣れしているので、目の前で起きた事故に対しても、割と冷静でいることが出来るようだ。 それになにより他のチームのクラッシュなので、秋穂達が必要以上に衝撃を受けなければならないものではない。 秋穂の落ちついた声に、公人も幾分か落ちつきを取り戻すことが出来た。 「ああ、サンキュ、でもあと5周ないからな、このままレース終了かもな」 「かもしれませんね。事故処理があと5周くらいの時間で終わるとは思えませんから」 秋穂と公人の言うとおり、ペースカーが入った後オフィシャルから正式にレース終了の連絡が全チームに入り、2周を残してチェッカーフラッグも振られないままレースは終了した。 順位はペースカーが入る直前の順位が適用され、公人は優勝となった。 「あんまり喜べないよな」 ピットに帰ってきた公人は、不機嫌そうにクルマから降りた。 気配を察してか、虹野や秋穂も複雑な表情で公人を迎えている。 逆にその他のチーム内のスタッフやピットクルーは初出場初優勝ということで素直に喜んだりしていた。 クルマから降りた公人の肩や背中を叩いて激闘をねぎらうモノもいる。 しかし公人はヘルメットも脱がないままツカツカとピット奥へ向かい、紐緒のブース横に並んでいるディレクターチェアの一つにドカッと腰を下ろした。 「どんなカタチであれ、勝ちは勝ちよ。素直に喜んだらどうかしら?」 椅子に身を預けている公人を横目で眺めながら、紐緒が言った。 「頭では理解してても、気持ちの整理がつかねえ」 天井を眺めながら、力無く公人は言う。 こんなすっきりしない勝ち方は公人には初めてだった。いや公人自身こんなのは勝ちだとは思っていない。 あの事故も冷静になってみれば公人に非は無い。単純に古式のドライビングミスだ。公人は被害者でさえある。 でも、やっぱり気持ちは晴れなかった。相手が事故を起こしてリタイアし、自分の順位が上がる。過去にも無いことではなかった。 1位を巡る順位争いの相手がクラッシュしたからか、そのクラッシュが古式だったからか、とつとつと考えていると急に目の前に人影が立った。 「高見くん…」 公人の顔をのぞき込むような格好で虹野がそこに立っていた。 公人が頭を動かしてちらりと虹野の顔を見たので安心したのか、心配そうにしていた表情が少し崩れて、僅かに口元に笑みが浮かんだ。 「よかった、疲れて動けないわけじゃないのね。そろそろ表彰式始まるよ。準備しなきゃ」 「あ…うん」 返事をしながら他のスタッフや、特に虹野に気を使わせている自分に気がついた。 何をやってるんだかと苦笑しながら公人はゆっくりと身を起こし、ヘルメットを脱いで大きく深呼吸した。 顔に当たる空気が冷たく、心地よい。 「高見くん、あの…」 ふいに虹野が公人をまじまじと見つめた。信じられないモノを見た、そんな表情だった。 「えと、なに?」 「…髪の毛が…スゴイことになってるよ」 言い終わらないうちに、プッと虹野が吹き出した。とっさに公人に背を向けるが肩が上下に震えている。必死に笑いをこらえているのだ。 「え? なに? 髪の毛?」 あきれ顔の紐緒が無言で手鏡を公人に手渡した。 「うわ、なんじゃい、この頭わ??」 ペタッと頭に髪の毛が張り付いていたり、激しい寝癖のようになっていたり、前衛的なヘアスタイルが公人の頭に鎮座していた。 ヘルメットの被り方が悪いと時々髪の毛が面白おかしいコトになったりするのだが、今回のはいつにも増して強烈だ。 「ちょ、ちょっと待っててね。い、今帽子持ってくるから」 まだ笑いをこらえている虹野がそう言ってピット奥へと入って行った。時々こらえすぎてケホケホとむせている声が聞こえる。 「…そんなにおかしいかな」 手鏡とにらめっこする公人。 「レースの緊張感から開放されたせいかもしれないわね」 データを整理している紐緒が、少し興味深げにそう云った。 その後表彰式も滞り無く過ぎ、公人はその足でチームゆかりのパドックに向かった。 古式の様子が心配だった。加速途中でそれほどスピードが出てなかったとは言え、ミラーで見た限り衝突後数回横転している。 少なくとも無傷でいるとは思えなかった。 チームゆかりのパドックではすでに撤収作業が終わりかけていて、無惨な姿に変わり果てたクルマもすでにトランスポーターに乗せられていた。 動き回っているスタッフの中に朝日奈の後ろ姿が見えたので、公人が声をかけようと近づくと、足音に気づいたのか朝日奈が急に振り返った。 「高見クン…」 朝日奈は公人の顔を見て一瞬複雑な表情を浮かべたが、すぐにいつもの調子で 「あ、そうだ、優勝おめでとう。あたしも表彰式見に行きたかったんだけど、ちょっと野暮用があって行けなくってさぁ、ゴメンね」 ぺろりと舌を出して悪びれない風に微笑んだ。 「ありがと。いや、そうじゃなくて、ちょっと話があるんだけど」 「ゴメン、もう行かなくちゃなんないし、また今度ね」 そう言ってきびすを返して行こうとする朝日奈の腕を、とっさに公人がつかんだ。 「…そんな力入れて握られたら痛いよ」 「あ…悪い」 朝日奈は振り向かずに静かな調子で続けた。 「…ゆかりのことでしょ? たぶん大丈夫だよ、ゆかりだったら」 「たぶん…?」 「うん、あたしも詳しく聞いてないからよく知らないけど、命に別状はないって、そう聞いたよ」 「そうか」 公人の肩からホッと力が抜け、無意識に安堵の溜息をついた。 「あたしたちもこれから病院に様子見がてらお見舞い行くの。ゆかりには高見クンが心配してたって伝えておくね」 振り向いて公人の顔を見ながら言う朝日奈の顔は、微笑んでいたものの、少し寂しげだ。 しかしその表情は水銀灯が作る影に遮られて、公人にとどかなかった。 「ああ、お大事に、って伝えておいてくれ」 「うん、じゃあね」 ニカッと笑うと、小走りでスタッフ達の待つパドックの裏へと消えていった。 「無事だったか。よかった」 誰に言うでもなく、ポツリと公人がつぶやいた。 終わらない・・・。 って言うか、自分でもこの先の展開が何がなんだか。 --------- |