コントロールライン脇のポストに設置された、残り周回数を表す電光表示板に「9」の文字が灯った。 ちょうど先頭の車両が通過したのと同時である。 2ケタだった残り周回数が1ケタになると、急にサーキットの中の緊迫感が増し始める。 観客、ピットクルー、オフィシャル、皆間近に迫ったゴールの瞬間に向けて集中し始めていた。 もちろんドライバーとて例外ではない。 1ケタ周回など走っていればゴールなんてあっと言う間の周回数である。自然と順位争いも激しくなり、それを見ている観客達も沸き始める。 公人は現在2位を走っていた。1位は古式である。 公人にとってはトラブル以外の何物でもなかったスペシャルエンジンシーケンスが元に戻った後で、次々とファステストラップタイムを叩き出し、一気に順位を2位まで上げたのだ。 古式も公人が後ろについた途端、今までとはうって変わったドライビングとなり、お互いに1/1000秒単位でファステストを更新していた。 やっぱり最終的には古式さんとの勝負になったな、と公人は声には出さないがそうつぶやいた。 声に出さないのは無線機が壊れていて、話す内容全てが紐緒や虹野にだだ漏れだからである。 古式の真後ろに張り付いてからすでに5周。残り周回も少ないのでそろそろ仕掛けて行かねばならない。 クルマのスペックは公人の操るクルマの方が僅かに上である。 実際ホームストレートでは横に並ぶことも出来てしまうのだが、距離が足りずに結局コーナ直前で後ろに下がることとなってしまっている。 ストレートで抜けなければコーナで抜くしかないわけだが、それが容易に出来るのならば公人も苦労はない。 古式のドライビングは一見隙が多いように見えるのだが、だからといって抜こうとしても全然抜けない。 彼女の持つ独特のドライビングのリズムが全然つかめないので、仕掛けようと考えてもそのタイミングを逸してしまうらしい。 そんなことを考えながらコントロールラインを通過し、残り周回は8周となった。 「高見君、残りは8周よ。そろそろ本気で行かないと勝てるモノも勝てなくなるわよ」 1コーナに入る直前で紐緒から通信が入った。しゃべり方の調子から判断するに、かなりイラついている。 「本気で走ってるよ」 「本気の出し方が足りないんじゃないかしら?」 「まぁ、多少は」 「高見さん、紐緒さんと漫才なんてしてる場合ですか! もうあと8周切ってるんですよ!」 紐緒と公人の会話にイラだったように秋穂が割って入った。 「いやずっと本気では走ってるんだけど、古式さんのドライビングって独特だからうかつに仕掛けられないんだよ。言い訳みたいに聞こえるかも知れないけど」 「でも抜けない相手じゃないんじゃないですか?」 「そりゃ、多少無茶すれば抜け無くもないけど、ちょっとリスク大きすぎるからな」 「高見くん、無茶はやめてね。ちゃんと無事にゴールしてくれれば十分だから」 見かねて虹野も通信に割って入る。公人の言う「無茶」と言う言葉が気になったためだ。 虹野ももちろん公人には勝って欲しいのだが、ことさら危険な真似をしてまで勝って欲しいとは思っていない。 秋穂も基本的には虹野と同意見だったが、少なくとも虹野よりは勝ちに対してこだわっている。 しかし紐緒は勝つことしか頭に無い。 「あなたの言う"多少の無茶"を許すわ。それで勝てるのなら、存分にやりなさい」 「紐緒さん…」 驚いたように虹野が紐緒のいるブースに振り返った。 「どういうつもりなの? 紐緒さん。高見くんはリスクが大きすぎるって言ってたじゃない」 珍しく語気を荒げて虹野が紐緒のいる計測ブースにつめ寄った。背後には秋穂が続いている。 「…」 しかし紐緒はちらりと虹野の顔を見ただけで、すぐにモニタに目を戻した。 「2位だっていいじゃない。負けた訳じゃないんでしょう?」 ふう、と紐緒はつまらなそうに息をはいた。 「1位以外は負けと同じよ。それに、リスクが大きいからってあきらめてどうするの? 最後までベストを尽くさないで勝てるわけがないでしょう」 「…それは…そうだけど…」 「やれるだけのことをやって、それで負けるのは仕方がないわ。実力が伴わなかったんだから。でも、やれることを残して負けるのは私には許せないの。高見君だってまだあきらめてるわけじゃない。だから彼の好きなようにやらせたのよ。別に彼をけしかけたわけでもないわ。最後に判断するのは高見君自身なんだから」 「…」 紐緒にそう言われて虹野は黙るしかなかった。やっぱり自分はレースのことを全然理解していないと、寂しそうな表情でうつむいた。 「虹野先輩」 励まそうと秋穂が声をかけるが、うまい励ましの言葉がでてこない。 「今私たちに出来るのは彼を信じて応援する事くらいだわ。さ、あともう7周切ったのよ。出迎えの準備をしておいて頂戴」 相変わらずのクールボイスでそう言う紐緒だが、声にいつもの刺々しさがない。 「うん、わかった。ゴメンね取り乱しちゃって」 「虹野…先輩?」 「大丈夫よ、みのりちゃん。ちょっとレースの雰囲気に飲まれて興奮しちゃったみたい」 てへへと照れたように虹野は舌を出して苦笑した。 「だ、大丈夫ですよ。高見さんだったらきっと上手く走ってくれます」 秋穂の言葉にニコリと微笑む虹野だった。 「どういう意味? メグ」 美樹原の言葉に半ば放心気味だった詩織が、つぶやくように言葉をはいた。 それほど詩織には予想もつかなかったことだった。 「え? 高見さんとつきあっちゃおうかなってこと? 別に深い意味はないよ」 「な、公人くんのこと、もしかして…」 「うん、好きよ。優しいし、それにちょっとかっこいいじゃない」 そう言って美樹原はちょっと照れたように笑った。 「あ……、そっそうなの…、全然私気がつかなかった…」 詩織はと言えば動揺して、自分でも何を言っているのかよく判ってないようだ。 そんな詩織に構わず美樹原は続けた。 「今まで詩織ちゃんに遠慮してたんだけど、詩織ちゃんが高見さんのこと好きじゃないなら、私にもチャンスがあるかなーって」 「こ、こ、告白…するの?」 「うん」 恥ずかしげに耳まで赤くしている美樹原だが、その顔には笑みが浮かんでいる。 詩織は公人とは幼稚園に上がる前からのつきあいだ。公人の性格は十分に理解してる。 だから詩織には美樹原が公人に告白したときの公人の行動が手に取るようにわかった。 恐らく公人であれば美樹原を拒むことは出来まい。ちょっとうろたえて、迷ったあげくOKするだろう。 優しいと言うより優柔不断で押しに弱いだけなのだ。 そんなことを詩織が延々と考えていると 「どうしたの? 詩織ちゃん」 いぶかしげな顔で美樹原が詩織に声をかけた。 「え? あ、ううん、なんでもない。なんでもないよ」 でも全然なんでもなくはない。頭の中は混乱を極めていた。こと公人に関することには何故か最近は心の準備が間に合わずうろたえてしまうことが多い。 「そう、だったらいいんだけど」 楽しそうに美樹原は微笑んだ。 コース上では古式、公人の順にコントロールラインを通過し、残る周回は6周弱となっていた。 依然公人は仕掛けない。 古式のドライビングをトレースするようにぴたりと背後2mの位置にクルマをつけていた。 少しでも古式のクセを見抜こうと神経を集中させている。 独特のドライビングをするからには必ずクセが存在する。 抜きをかけられないのはそのクセがわからないために、タイミングを狂わされるためなのだ。 公人はそう確信していた。 実際ぴたりと張り付いてトレースしてみると、セオリーを無視しているものの理解できない走り方ではない。 ただ古式は自分の走り方に最適化されたマシンに乗っているため、公人のクルマでは完全にはトレースしきれない。 「最終コーナ出口か1コーナ飛び込み…かな」 ぽつりと公人がつぶやく。 唯一仕掛けられそうなポイントらしい。この2点では古式は僅かに公人のたどるラインを外れて走っている。 古式のベストラインらしいが、鼻先を僅かに突っ込めるかどうかという程度のすき間を開けていた。 ここに鼻先を突っ込んで道をこじ開けるしかない。多少強引だが、追い抜きをかけるにはこれ以外に方法はない。 古式がこのすき間に気づいていれば閉じられてしまう可能性も無くはないが、鼻先を入れてしまえば閉じることは出来ない。閉じれば共倒れになるだけだからだ。 マシンスペックは公人の操るクルマの方が上である。 「よし」 コントロールラインを通過し、残る周回は5周。 この周回で仕掛けることに公人は決めた。 古式との差を1mに縮める。 バックミラー越しにちらりと公人を見る古式の目が見える。 パドックなんかで会うときの目よりももう少し大きく見開いているが、それでも三角にしているわけではない。 いつものように優しい感じの目だった。 なるほど、朝日奈に聞いたとおり運転中も普通なんだな、と公人は思った。なんとなく口元が緩む。 古式は古式で、追い立ててくる公人のクルマを見て、ちょっとうれしくなっていた。 彼女はあまり勝ち負けにこだわって走っていない。楽しく走れればいいと思っている。 今彼女は公人との真剣勝負を楽しんでいた。公人は本気の本気で古式を抜こうとして走っている。 それが古式にはうれしかった。このままコースを譲って上げてもいいが、それでは公人は喜ばない。初めて戦ったときもそうだったように。 そして2台は最終コーナ入り口にさしかかった。 両者同時にブレーキング。そして同じ姿勢のままコーナに進入した。古式は古式の、公人は公人のラインをたどりながら。 続く。短いけど。 --------- |