修正プログラムに切り替わった公人のクルマは、暴れ馬そのものだった。 足周り、ブレーキ、シャシー剛性、全てがエンジンパワーに振り回されている。 無論運転する公人も暴れないように押さえつけるのに必死だ。 一体このエンジンはどこまでパワーを絞り出せるのか見当がつかない。 「ひ、ひ、紐緒さん、なんだよこれ、エンジンが全然別物みたいにっ」 ようやく通信できた内容がそれだった。 もちろん紐緒は涼しい顔で聞いている。むしろ当然といった表情だ。 「言い忘れたけど、そのクルマのエンジンはGTワールドカップ用に試作していたエンジンのうちの1つをデチューンしたものよ。2000ccNAでMAX500馬力は絞り出せるかしら。燃調系のプログラム、具体的に言うと、吸気流量と燃料送り量と最高回転数の制限で300馬力程度に抑えていたのだけど、それを取り払っただけよ。気に入ったかしら?」 秋穂と虹野は青い顔で紐緒を見つめている。特に秋穂は吸気のパイプにあやしげなパーツがついているのに気がついていたが、紐緒がなにを言うでもなく極当たり前のように調整していたので、特に気にも留めていなかった。 エンジンをチューニングする班でないため、今回のエンジンがそんなとんでもないモノとは思ってもいなかった秋穂だが、今度からはよく判らないパーツ関係は、全て紐緒に確認しなければならないと、今更ながら紐緒のとんでもなさに冷や汗が流れていた。 それより何より、こんなエンジンじゃレギュレーション違反してるんじゃないかという考えが脳裏をかすめて、まさに冷や汗が流れるどころの騒ぎではない。 「気に入るもなにも、吹っ飛ばないように運転すんのが、やっとだよっ。アクセルが全然踏めない。5分なんて、今すぐ戻してくれないと、先頭集団に追いつくどころじゃねーよ」 「ダメね。5分でプログラムを送ってしまったから、今更修正は効かないわ。早く慣れなさい。」 あっさりとそう言い放つ紐緒。 「うぉー、クルマがバラバラになりそうだっ」 公人がそう言うとほぼ同時に、猛然と加速し続ける公人のクルマが、ピットウォールで見ている虹野と秋穂の目の前をあっと言う間に駆け抜けていった。 虹野の目で見てもさっきより速度が段違いだった。 かなり手前から目一杯ブレーキを踏み込んで速度を落としてトンネルセクションに突入する。 うかつなアクセルワークは自爆を招くもとなので、アクセルを踏む右足が必要以上に力んでいる。 パワーがあるのはいいのだが、それ以外の部分がそのパワーに見合った造りをしていないので、クルマとしてほとんど成り立っていない。 まだFFだから思いっきりどアンダーが出る程度で済んでいるので、コーナ出口までアクセルを我慢しつつジワジワ開けて行けばなんとかなるのだが、これで後輪駆動だったらと思うと、公人は背中に冷たいものが走るのを禁じ得ない。 ただそんなおっかなびっくりな運転が速いはずもなく、先頭集団との差はあまり縮まっていない。 ホームストレートで一気に差を縮められるのだが、それ以降だと逆に差を広げられてしまう。 ホームストレートで背後に近づいてくるクルマが公人のものだと古式が気がついたのは、公人が暴れるクルマをなだめすかし始めてから2周目を経過してからだった。 夜であまりカラーリングもよく判らないのだが、公人のクルマはフロントバンパー下に取り付けたリップスポイラーが蛍光オレンジに塗られていたので、それと気がついた。 公人だと判った途端、思わず顔がほころんだ古式。 レーススタートから都合14周を経過して、最後尾から5位にまで順位を上げ、なおかつ今は先頭集団に入ろうかという勢いである。 古式の目にも公人のドライビングがちょっとおかしいように見えたが、それはあまり気にしていない。 それより、この一気に順位を上げてきたことに対して自分のことのように喜んでいる。 「夕子さん、高見さんがもう私の後ろにまで来てしまいました。やっぱり、高見さんはすごいですねぇ」 のん気に朝日奈にそんな通信を入れた。 「ゆかりぃ、そんなのん気に誉めてる場合じゃないわよー。一応高見クンは敵チームなんだから」 溜息混じりに苦笑して朝日奈がそう言い返す。 「でも、高見さんは高見さんです。それで、どういたしましょう。そろそろ前のクルマを抜いて行ってもよろしいでしょうか?」 「そうね…」 ちらりと監督の方を振り返った。 監督は朝日奈と目を合わせると、こくりと一つうなずいた。 「オッケー、高見クンが迫ってきた今は、もう好きに走っていいわよ。ゆかりだったら心配ないと思うんだけど、無理しちゃダメだよ」 「はい、わかりました。それでは」 とたんに古式のクルマが前を走るクルマの横に並び、そしてごく当たり前のようにパスして行く。 2位を走るクルマはさすがにブロックしてきているが、それでも古式はそれをモノとも考えていない。 古式流に言えば、パスできる箇所はいくらでもあるのだ。 「もしかしたら、あれ、古式さんか?」 だいぶ暴れ馬にも慣れてきた公人もようやく前の動きを見る余裕が出来たのか、今まで順位の動かなかった先頭集団の中で急に順位の入れ替わりが起こり始めたのに気がついた。 動いているのはインテグラTypeRである。 ただ古式の乗るクルマはフロント側からしか見たことがないので、古式かと思ったのはあくまで公人のカンだ。 なんとなくカラーリングもそれっぽい。しかし水銀灯のコントラストの強い光線はそれ以上の情報を与えてくれなかった。 変更プログラムが走っている時間は、すでに残り1、2周程度となっていた。5分なんて集中してしまえば割とあっと言うまである。 数周走ってなんとか押さえ込めることが出来てきている公人には、4位のクルマは既に射程圏内に入ってきていた。 このままの調子で行けばホームストレートの加速で追い抜くことが出来る。 ただそれだとその後のトンネルセクション入り口がちょっときつくなるので、完全に射程に納めるだけに留めて、プログラムが元に戻ったところで改めて本気で猛追をかけるつもりだ。 1位から4位は紐緒からの順位連絡だとほとんどタイム的に差がないとのことなので、射程に納めることが出来ればあとは何とでもなる。 「また古式さんと一騎打ちになるのかな」 他のクルマの実力はどうだか知らないが、今のパスの仕方を見る限り今の所手強いのは古式だけに思えた。 「どちらにせよ、そろそろ前のクルマを抜いておかないと後がきつくなるわよ。それと、無線のスイッチが入りっぱなしね。プッシュスイッチが壊れたかしら?」 公人が独り言を言った直後に紐緒から通信が入った。 どうやら紐緒の言うとおり、ハンドルに取り付けられた通信用の押しボタンが押されっぱなしになってしまっているようだった。 さっきから暴れるクルマを抑えつけながら無線を使っていたために、必要以上に力を入れすぎて壊れてしまったらしい。 独り言も悲鳴もうめき声も全部筒抜けである。 「え? 無線のスイッチが壊れた? じゃあ独り言とか全部ダダ漏れか?」 「使えなくなるよりマシよ」 「そりゃ、そうだけど…ところで、そっちでエンジンの状態とかモニタしてるんだろ? 今状態はどんなんだ? まだ大丈夫なのか?」 「今のところ問題は出ていないわね。油圧も油温も正常範囲内だわ、異常な振動も検知していないし、まだまだいけるようね」 「そうか、だったらいいんだけど」 確かにエンジンは何の問題も無かった。本来のポテンシャルを引き出してなお余裕を持たせているのでこの後何周走ったところで問題など出るはずもない、と紐緒は確信している。 ただし秋穂は相変わらず青い顔をしている。別なところで問題が出てくるのではないかと思っているからだ。 紐緒は確かにエンジニアとしては優秀だ。天才と言っても言い過ぎではない。しかし物事をなんでも理論で攻める傾向があり、またどちらかと言えば考え方が固執的になりやすい性格をしている。 実戦経験を踏んでいる秋穂は理論ではなく直感で考えることがある。 この辺は公人と似ているかも知れない。そして場数を踏んだ経験によって裏打ちされた秋穂の直感が、いま警告を発していた。 「無事ゴール出来たとしても、もうこのクルマ、使えないかもしれませんね」 秋穂が虹野につぶやくように言った。無事ゴールと言ったが、秋穂の頭の中では最悪ゴールする前にトラブるのではとも考えている。 「え? みのりちゃん、それどういう意味?」 事情をよく飲み込めない虹野が不思議そうな顔で聞き返した。 「さっき高見さんも言ってましたよね、クルマがバラバラになりそうだって。エンジンのパワーに他の部分が耐えきれないんですよ。クルマだってバランスで走る乗り物です。どこか一箇所強くしたら、他の弱い部分にツケが回ります。このパワーもあと1、2周で切れますけど、歪みは絶対出てると思います。それがボディにまで及んでたら、ちょっと怖くてもうレースには使いたくないですね」 「ボディや足周りはあのパワーを受けとめるほど剛性を持たせてはいないわ。もともと300馬力程度のクルマとして造ったものだから。でも材料の特性や強度解析シミュレーションでは時間的なマージンは確保しているわ。でも確かにこの様子だと、レースに使うにはちょっと問題があるわね。何事も実際やってみないとはっきりしないものね」 いつの間に出てきていたのか、計測ブースからピットウォールまで来ていた紐緒が秋穂にむかってそう言った。 「紐緒さん、もうこんなマネはやめてね。ドライバーもピットのみんなもすごく不安になるから」 こう言うときの虹野は本当に心配そうな顔をする。本人はそのつもりが無くても、無意識に感情が表情に出ている。 思わず紐緒も珍しくちょっと困惑した顔になり、 「…わかったわ、しょうがないわね、ちょっと不本意だけど」 溜息混じりに言うと、きびすを返していつものブースに戻っていった。 紐緒があまり暴走しないのは、こんな虹野の性格に弱いからだと秋穂は分析している。 以前は、もしかしたら紐緒にはアッチのケがあるんじゃないかと勘ぐっていた秋穂だが、実際は虹野の性格に大きく起因するモノだった。虹野は紐緒と正反対の裏表のない性格をしているので、実はその辺りに秘密があるのではないか、と以前秋穂は公人に説明したこともある。 「取り込んでるところ悪いけどさ、プログラムが戻るタイミング教えてくれない?」 公人からの通信だった。どうも紐緒の無線のマイクスイッチが入りっぱなしになっていたらしい。 切り替わりに際して仕掛けるつもりの公人は現在4位の真後ろを走っていた。 切り替わるとパワーが一気に半分程度になってしまうが、結局は元の状態に戻るだけなのであまり心配はない。 先頭グループになんとか引き離されないようにドライブしていればいいだけだ。 しかしいきなり切り替わられても困る。ストレートの加速中に切り替わられでもしたら急にエンジンブレーキがかかってどうなるものだか判ったモノではない。 「切り替えはあと30秒以内に行われるけど、切り替わるタイミングは最終コーナで減速した時よ。アクセルを閉じた瞬間に切り替えるわ。一気にエンジンブレーキがかかると思うから、注意して頂戴」 「オーケー、少なくともホームストレートの立ち上がりでアクセルに気を使わなくて済むのは助かる」 「それよりもう周回が少ないわ、もう少しペースを上げて行きなさい」 「後半戦か…ま、タイヤ温存しておいたから、一気にケリつくかな。それじゃ今から集中するから、あまり話しかけないでくれよ」 「了解」 「どうしたの? 大丈夫? 詩織ちゃん」 美樹原が事務所奥の休憩室で休んでいる詩織を見つけて声をかけた。 美樹原はレース開始からさっきまでコントロールタワーにいたのだが、レースが半分を過ぎたところで交代となり、事務所に降りてきたところだった。 逆に詩織は今回もレースクイーンの代理をやらされていたため、レース終了まで出番がない。 もちろん待ち時間もクイーンの衣装を着ているが、今は足首まである長い薄手のコートのようなモノを上から着ているので衣装は見えない。 詩織は机には突っ伏していなかったものの、うつむき加減で缶入りのお茶を両手で握っていたため、じっとそれを見つめているように見えた。 長いストレートの髪が顔を隠すように垂れているので、表情までは読めない。 美樹原の声に一瞬遅れて気がついた詩織は 「あ、メグ。ううん、大丈夫。ちょっと手持ちぶさたで」 ゆっくりと美樹原の方を向いて微笑んだ。しかしその微笑み方が痛々しい。誰が見ても無理に微笑んでいるに相違なかった。 詩織の手元でカタカタと缶が小刻みに音を立てている。 「詩織ちゃん…、大丈夫よ、高見さんのドライブはさっきから見てる限り安定してるから。それに、詩織ちゃんがここで心配してても仕方がないことでしょ?」 以前のサンデーカップで公人がゴール直前にクラッシュした事を美樹原は思い出していた。 あの時の詩織の取り乱し様は美樹原も初めて見るものだった。 無事だったとは言え、目の前で友達があんなクラッシュを起こしてしまって冷静でいられるはずもない。 だから今も心配でレースを見ていられないのだろうと美樹原は思っている。 「そう…なんだけど、私に出来ることは何もないし」 「レースの行方を見届けてあげればいいんじゃない?」 「ダメ。…怖くて…」 そう言って詩織はまたうつむいてしまう。 ふう、と美樹原は一つ溜息をついた。 こんな詩織を美樹原は見たことがなかった。見るのもいやだった。 普段の詩織はもっと明るくて知的で自信にあふれていて、美樹原もうらやむほど快活なのに、今の詩織はただ弱々しく怯えているだけだ。 「…そんなに好きなの? 高見さんのこと」 「うん……え? い、いやその、あの、ち、違うわよ。ただ、幼なじみだし、やっぱり心配じゃない」 真っ赤な顔であわてて言い直す詩織。 言い直したって態度で判る。美樹原とてそのくらいは察することは出来る。 往生際が悪いなぁ、と美樹原は思う。 素直に公人のそばに居てあげればもっと楽になれるはずなのに、それをしない。 「好きならつきあっちゃえばいいじゃない」 「だから、違うわよ。幼なじみ」 赤い顔で詩織は苦笑しながら答えるが美樹原は笑っていない。詩織がちょっと不審に思ったところへ 「じゃ、私、つきあっちゃおうかな」 微笑みながら美樹原がそう言った。 続く。いや一応「ときメモ」だし。こんな展開もオッケーっしょ。 |