スタート後のトンネルセクションまでに古式は1台をパスし、順位を4位へと上げていた。 予選後に足周りや空力を多少いじったのが効を奏したようだ。 壁だらけのコースでありながら、特に怖がる素振りも見せずに、いつも通りのドライビングをしている。 3位を走るクルマを射程圏内に納めつつ、レース前に朝日奈に言われた 「最初の何周かは無理しないで様子を見るんだよ」 という言葉を守り、すぐに抜いていこうとはせず、ピタリと真後ろに張り付いて走っていた。 抜くにしても古式のクルマの方が直線でちょっと速いので、ホームストレートでパスする気でいるのだろう。 いずれにしろ、僅かなミスが取り返しのつかない事態を招く可能性のあるサーキットである、と言うことは古式も理解していた。 さっきからしきりにちらちらとミラーで後方確認しているのは、どうやら公人の来るのを待っているかららしい。 公人は更に1台パスしながら考えていた。 レースの周回数はわずか30周である。 1ラップで2台抜ければ確実に1位は取れるかも知れないが、レースは滅多にそうは上手く運ばない。 先頭グループを走る古式の動きも気になっていた。 紐緒が古式の予選でのラップタイムを計測した限りでは公人よりも遅いタイムだったが、それでも1秒とは違わない。 ほんの十分の何秒という差だ。 ポールのクルマともその差は極僅かである。 周回を重ねれば追いつくという訳にも行かないだろう。 最終コーナーに飛び込むため軽いブレーキングをしたところで、紐緒から今日最初の通信が入ってきた。 「今トップがコントロールラインを通過したわ」 慌てるでもなく淡々とした口調だ。 公人もハンドルに取り付けてある通信用のボタンを押しながら答える。 「オレは何秒遅れ?」 「その位置からだと15秒ほどね。次の周回からラップタイムの計測を開始するわ。今のラップの第2セクションの区間タイムだと6位のタイムね。もう少しがんばりなさい」 「ちょっと抜くのに手間取ったし、ペースも落として走ったからな。次の周回からもう少しペース上げてみる」 通信は虹野や秋穂にも聞こえている。 公人との通信は基本的にクルーの数人と紐緒、虹野のみが出来るようになっている。 信号もデジタルに変換し暗号化しているので、音質は割とクリアで他人に傍受されることも少ない。 ただ公人からの音声は、エンジンやロードノイズの影響で多少聞き取りにくいときもあるようだ。 紐緒と公人の無線連絡を聞きながら、虹野はまだピットウォールでコースを見守っている。 水銀灯で照明がされているとは言え、遠くから走ってくるクルマを識別するのは簡単なことではない。 紐緒が 「コントロールラインを通過するわ」 と公人やクルーに連絡したところで、虹野の眼前をフル加速で公人のクルマが駆け抜けていった。 1コーナーの進入に備えてピットウォール側を走っていたので十分に目が追いつかなかった虹野だったが、公人の方はピットウォールにいる虹野達の姿を確認できたようだ。 甲高い排気音をとどろかせながら1コーナーへ消えて行く。 「今の、高見くんだったよね?」 虹野が秋穂に訊ねた。目が付いていかなかったのでちょっと自信がないらしい。 「そうですよ。通り過ぎるとき手振ってましたし、まだまだ余裕あるみたいですね」 「え? そんなのまで見えたの?」 「動体視力には自信があるんです」 照れたように秋穂が笑った。 各車のタイムなどの情報は、各チームのピット内にそれぞれ1台づつオフィシャルにより設置されているモニタでも表示されてる。 この情報はオフィシャルが正式に発行し、タイムや順位がリアルタイムに更新されている。 タイムはラップタイムとコースを3つに区切った区間タイムが表示され、順位はコントロールラインを横切ったときの順位である。 またファステストラップも随時更新されていく仕組みだ。 「高見クン、最初の周回で8台抜いて行ったのかぁ。やっぱ速いなー」 朝日奈がモニタに表示された順位の中に公人の名前を見つけて、賞賛に似た溜息をついた。 「やっぱりもう何周かしたらゆかりに追いついちゃうわねぇ。ん〜、やっぱり無理してでもうちのチームに引っぱり込んだ方がよかったかな」 アゴに人差し指を当て、腕組みしながらモニタを見つめてそんなことをつぶやく朝日奈だが、これは本人も結構まじめにそう考えている。 刻々と更新されるタイムを見ながら、朝日奈は帽子に取り付けてある無線機のスイッチを入れた。 「ゆかり、調子はどう? 高見クンは今8台抜いて17位まで上がってるわ。高見クンの上がり方次第で作戦とか変えるから、とりあえず監督の指示が出るまでそのままで走ってて」 何となく不安を感じたのか、古式にそんな通信を入れた。 「…はい、了解致しました。そうですか、やっぱり高見さんは速いですねぇ」 それを聞いた古式はと言えば、やっぱりいつも通りの古式だった。 先頭グループはほとんど順位の入れ替えもなくこう着状態が続き、中盤以降ではめまぐるしく順位を入れ替えながらレースも10周目に突入した。 公人はこの中盤の順位争いに巻き込まれて思うようにポジションを上げられず、いまだ7位の位置を走行していた。 速さが拮抗している訳ではないのだが、抜こうとするクルマ、抜かれまいとするクルマが入り乱れてしまうことが多々あり、公人も慎重になって無理に抜いていけなかったためだ。 6位から先は先頭グループとなり、これは今公人達のいる集団から10秒ほど前を連なって走っている。 つまり10周経過したところで5秒しか縮められなかった計算である。 公人も紐緒もちょっと計算外の事だった。 それでもなんとか6位のクルマをホームストレート上でパスし、ようやく先頭グループを追うことが出来るカタチとなった。 トンネルを抜けたところで紐緒からまた公人に通信が入った。 「エンジンのシーケンスを短時間だけ切り替えるわ。エンジンに過負荷がかかるから長時間は無理だけど、5分程度なら持つはずよ。2周後のホームストレートの立ち上がりで変更するわ。いいわね?」 いいわね? と訊ねるカタチになっているが、無論拒否することは不可である。 「変えるとどうなるんだ?」 その程度のモノは当然紐緒だったら積んでいるだろうと、特に公人は驚くでもなく通信を返した。 「燃調を少し変えてパワーを上げて、更にレブリミッターを1500回転上に上げるわ。少なくともメータに刻まれている目盛りに針があるうちは、すぐにブローする事はないから安心しなさい。でも、もって10分程度。バルブのメカニカルが耐えられないのよ。市販品に頼っているから仕方がないのだけれど」 ふう、といういかにも残念そうな溜息が、公人のヘルメットのイヤホンから聞こえた。 「5分は保つんだな?」 「実験済よ」 「りょーかい。今後のスケジュールの変更は?」 「今のところ考えていないわ。まだ誤差の範囲内だけど、修正は早いうちの方が後々面倒がないわ。」 「判った。この周回のラストで変更だな」 「ええ、頼んだわよ」 紐緒がそう言うと同時に、公人がコントロールラインを通過していった。 「紐緒さん、レブリミッター外しちゃうんですか?」 さっきまでピットウォールあたりで観戦していた秋穂が、今の通信を聞いて紐緒のいるブースに小走りで駆けてきた。 特に慌てている口調ではないが、顔は少し青ざめている。 「なにか問題でも?」 秋穂の顔色を不審に思いながらも、いつも通り冷静な返事である。 「一昨日コンピュータのセッティング変えましたけど、あの後耐久実験はしていないんじゃないですか?」 「無線のマイクは切ってあるわね?」 「え? ええ一応」 「そうね、実験はしていないわ。強度計算をやり直しただけよ」 なんだそんなことか、とでも言いたそうな口調である。 「じゃ、じゃあどうしてさっき高見さんに実験済みだなんて…」 「本当のこと言ったら、たぶん彼のことだから反対するに決まってるでしょう。不確定要素は早めに取り除くのが私の主義。それはあなたも判っているはずよ」 「それは…そうですけど、でもだからって高見さんにウソついてまでそんな」 「不服、かしら? 総合的に見て最良の判断を下したまでよ」 「それはわたしにも判ります…。でも…」 「高見君に不安を与えないための配慮よ。不安要素に対する心配は私たちがすればいいことだわ」 カタン、とキーボードのキーを一つ叩いた。エンジンマネージメントを変更するためだ。 クルマに搭載しているセンサからの信号を常時モニタしているので、最終コーナーの立ち上がりのタイミングにあわせて変更のプログラムが走るように設定してある。 「あまり心配しなくても大丈夫よ。彼はそこら辺のドライバーとはワケが違うんだから」 普段の紐緒からはそのような気配は微塵もないが、実は公人の実力を最も評価しているのが他ならぬ紐緒であった。 無論秋穂も公人の実力はとうに認めているが、虹野が公人のことを気に入っているという点でちょっと差し引かれている。 当の公人は前がクリアになったので、猛然と先頭集団に向かってクルマを駆っていた。 まだエンジンマネージメントは変更されていないが、もとより戦闘力の高いマシンであったため、その差はだいぶ小さなものとなっている。 なんとか4位のテールランプがちらちらと見えるかどうかと言った距離だ。 4位のクルマは依然古式のクルマであったが、公人には判らない。 どちらにしろホームストレートの加速で一気に追いつき、5分以内に追い越すつもりでいる。 紐緒のやることなので、そのくらいのモノになるだろうと公人は覚悟をしている。はっきり言ってストレートくらいでないとまともに踏んでいけないだろう。 最初からギリギリの線のセッティングなのでバランスが崩れるのは間違いない。 「でも少し面白いかも」 暴れるクルマをなだめすかしながら鞭を入れて駆る。腕に覚えのあるものにとって楽しくないワケがなかった。 続く |