フリー走行が終わり、その後の予選も予定通りに終わって本戦30分前となったConquest Racingのピット内では、あわただしくクルーが動き回っていた。 予選のタイムアタック後に突然電装系が全てアウトになるというアクシデントが発生したためであった。 ゴールを通過して、ピットに入る周回でそれは起こった。 当然ながらエンジンにも火が行かないため、エンジンは停止し、コース脇で立ち往生となってしまった。 無線機だけは別のバッテリーで駆動していたため、すぐにクルーが駆けつけてピットまでクルマを運ぶことが出来たのだが、おかげで予選はペナルティをもらい最下位という結果となってしまった。 予選はF1などのように何周か走ってベストラップを記録するという方式ではなく、グリッドについてスタートからゴールまでのタイムを記録する1ラップのみの勝負である。 GTリーグはどのカテゴリーも危険防止のため、例外無く予選は1台づつで行われる。 ただし、計測開始の方法はカテゴリーによりグリッドスタートとローリングスタートの2種類を設定している。 クラブマンはグリッドスタート方式を採用していた。 ただこの方法はやはり一回ずつグリッドにつかねばならないために時間がかかり、それ故に予選の進行を妨げる行為はペナルティの対象とされる。 公人達は予選の進行を妨げたとしてペナルティを食らってしまったのだ。 電装系アウトの原因はコンピュータの暴走と、エンジン熱による電装基板の破壊であった。 セッティングの時間の都合上、やむを得なくエンジンルーム内に電装基板が1つ残る事になってしまったのが直接の原因らしい。 ピット内では電装基板の配線取り回しとコンピュータの暴走の原因解析のために慌ただしくなっている。 「熱対策って、スゲー基本的なことだからやってるもんだと思ってたけど…」 ピットレーンとコースを隔てるコンクリートのピットウォールの上に座り込んでいた公人が、虹野にそうぼやいた。 虹野も公人もピット内にいては邪魔になると思い、ピットウォールのあたりまで避難しているのだが、紐緒の怒鳴り声から判断するに修理にはまだしばらくかかるらしい。 「やっぱり最初からすんなりうまくは行かないモノなのね」 ピットウォールに寄り掛かっている虹野も溜息混じりにそうつぶやいた。 「確か本戦10分前になったらクルマをグリッドに動かさないとダメだったよな」 「うん、そうなんだけど…間に合うのかな」 「間に合わなかったらピットからスタートだっけ? クルマが予選のときと同じ状態だったら、頑張れば勝てないでもないと思うけど。どっちにしても最後尾スタートだから大して変わらないけどな」 「惜しかったよね。結局高見くんのタイムより速いチームなかったのに。残念だなぁ」 「しょーがないさ、勝負は時の運ってね。でも勝ちに行くつもりだよ、オレは」 そう言って虹野の顔を見る公人の顔には不安の色はない。それを見て虹野も 「うん、頑張りましょ」 と今までの憂鬱な表情を飛ばして笑顔で元気にうなずいた。 「…で、実際のところ、ホントに直るのかな」 「わ、わたしに聞かれても…」 ピットの中の大騒ぎはいまだ静まるどころか、ますますエスカレートしつつあった。 「ねぇ、ゆかりぃ、高見くんのとこグリッド最後尾だけど、ヘンだと思わない?」 「はい? どうしてですか?」 そのころチームゆかりでは、オフィシャルから配られたグリッド表を見て朝日奈が小首を傾げていた。 公人のいるConquest Racingのピットとはかなり離れた位置のピットなため、ピット内で繰り広げられている大騒ぎには気がついていない。 グリッド表では古式のチームは5番グリッドである。 今回のクラブマンカップから投入されたインテグラType-Rの熟成がまだあまり進んでいないのと、古式自身も乗り慣れていないので、この結果に落ちついたらしい。 それでも参加25台中の5番だから大したモノである。 「わたしさ、高見クンの予選のタイムも計ってたけど、ゆかりよりも速かったんだよ? それなのにどうして最後尾スタートなんだろ」 「わたくしも詳しくは存じませんが、予選後になにかあったようですよ。高見さんのピットクルーの方々が何人かコースの中に入って行きましたから」 「ふーん、ちょっと高見クンとこのピット覗きにいきたいけど、またあの紐緒さんとか言う人に捕まったらヤだしねぇ」 「一番後ろからのスタートでも、高見さんは油断できませんよ。あの方はとっても速いですから」 「そだね。でもゆかりもがんばんなきゃダメだよ」 「はい、がんばります」 相変わらず不安なさげにニコリと微笑んでそう答える古式だった。 グリッド上にクルマを並べる時間ギリギリに、なんとか公人の乗るクルマはパーツを組み上げ、エンジンに火を入れることが出来た。 クルーも公人もヒヤヒヤものの作業だったが、それでもきちんと間に合わせるクルーの技術力は見事である。 グリッドにクルマを並べるときは、ピットレーン入り口から順にクルマを出して並べて行くという方式で、グリッドへのつきかたは特に規定はないので押して行ってもエンジンをかけて自力で行っても構わない。 「うわぁ、シグナルがあんな遠くだよ。なんとか光ってるのが見えるって程度だな」 公人もグリッドについて、遥か遠くに点灯しているシグナルを見て、溜息をついた。 付き添いで一緒についてきた秋穂も、無言だが同意するようにシグナルを見てうなずいた。 コースの上に設置されているシグナルはライトチェックの為に全てのライトを点灯させている。 スタートでは一旦全てのライトが消灯し、その後赤が順に4灯点灯していき、最後にグリーンが点灯してスタートとなる。 コース上では他のチームのクルマもグリッドにつくために移動しているので、結構人とクルマでにぎわっている。 ピット上に設けられているスタンドを見ると8割方人で埋まっていた。 「それじゃ、わたしはこれでもう行きますね。ガンバってくださいね」 グリッドで最後のチェックを終えた秋穂がそう言って小走りでピットに戻っていく。 ピットウォールを乗り越える前に一度振り返って、公人に向かって2、3度大きく手を振って、ピットに戻っていった。 「ふう」 緊張を解くための深呼吸をする。自信はあるとは言え、初めてのレースはやはり緊張するようだ。 軽く手足を動かして身体をほぐし、そしてヘルメットをかぶろうとした公人の背中に突如悪寒が走った。 「なおとくん」 聞き覚えのある声だが、妙にドスが効いている。 「し…詩織…」 振り返ると怒りのオーラをたたえた詩織が静かに真後ろに立っていた。 理由は公人にもだいたいわかる。予選前の約束を守れなかったためだ。マシントラブルのせいであるが、それでも守れなかったのは事実である。 「い、いや、オレもベストは尽くしたんだけど…」 思わず狼狽しながら答える公人。 それでも詩織は何も言わず、怖い顔でにらんでいる。 「あ、あの………ごめん…」 詩織ににらまれて、力無くぺこりと頭をさげた。 「…今回で2度目よ、トラブル起こすの。幸い大事にはならなかったみたいだけど。」 公人を見据えながら小声だがはっきりとした口調で言うと、肩の力を抜くように大きく溜息をついて、目線を地面に移すようにうつむいた。 「えと…予選で1位取れなかったこと怒ってるんじゃないの?」 考えていたこととまるで別なことを言われたので、公人は思わずそう聞き返した。 「そんなことで怒ったりなんてしないわよ。私は公人くんの身体が心配なだけ」 水銀灯のコントラストの高い照明のせいでうつむいている詩織の表情はよくわからない。 しかしその口調は穏やかであり、先ほどの重低音の効いた声ではすでになかった。 「いや、今回のはマシントラブルで止まっただけだから別になんともなってないよ」 「うん、でも注意してね」 「わかってる。事故起こすためにレースやってるんじゃないから。それと、予選の約束守れなかった埋め合わせはするから」 「え?」 「ほら、もうすぐレースが始まるぜ。やることとかあるんだろ?」 「あ、うん。じゃぁ無理しない程度にガンバってね。応援してるから」 「おう、頑張る」 公人はそう言い終えるとヘルメットをかぶり、クルマに乗り込んだ。 詩織も公人がクルマに乗り込んだのを見て、急ぎ足でコントロールラインまでかけていった。 公人のクルマのエンジンは1500回転でアイドルが安定していた。 アイドリングの回転数としては高めだが、下の方の回転数はもともとトルクやパワーがスカスカなセッティングの上、これより低いアイドル状態ではプラグも多少カブリ気味なので高めにセットしている。 軽く2、3回ブリッピングしてみるが、予選のとき同様レブカウンタの針は何の抵抗もなくレッドゾーンまで駆け上がり、そして速やかにアイドル位置へと戻ってくる。 ふけ上がった時の排気音も他のクルマと比べてより金属的な音を放っていた。 いつものことだが、このスタート直前の緊張感がたまらない、と公人は思う。 今までは個人としての参戦だったためそれほど強く勝つことを意識しなかった公人だったが、今はチームとしての参戦である。 緊張感にも一層重みがかかる。 大きく深呼吸をひとつついて、全神経を研ぎ澄ます。 遥か遠くに灯るスタートシグナルに神経を集中させ、スタートに備えた。 車内に取り付けた簡単なデジタル表示の時計は、スタート1分前を指していた。 遠くにレースクイーンがボードを持って立っている。 詩織かどうかは公人の位置からはよく見えないが、ボードを持って構えているのはやはり詩織だった。 顔を上げてはいるが、目はあちこちへと所在なさげに泳いでいる。 レースクイーンがコースから姿を消した直後に全点灯していたスタートシグナルの灯が全て消灯し、コースに響きわたるエキゾーストの音も一段と高くなっていった。 公人もそれを見てクラッチを踏み、シーケンシャルシフトのレバーを奥側に押して1速に入れ、爪先でブレーキを踏みながらかかとでアクセルをあおる。 F1ではハンドルにクラッチレバーがついているのだが、公人のマシンではクラッチは左足の足下に小さなモノが取り付けられている。 レースが始まってしまえば使わなくなるためだ。 レッドシグナルがついに点灯を始めた。 一気にホームストレートはエグゾーストの音で満たされる。 公人も5000回転辺りで軽くブリッピングさせながら、ハンドルを握る手に力を込めた。 外は既に秋の冷たい風が吹き、薄手のコートが欲しくなるような気温だが、車内はそれとは反対にエンジンや排気管から伝わってくる熱でヘルメットをかぶった額からはうっすらと汗がにじみ始めている。 ピットからも、スタート前の集中力をとぎれさせないために、公人への無線は切っていた。 虹野、秋穂以下ピットクルーは紐緒を除いて全員ピットウォールに詰めて直前に迫るスタートに固唾を飲んでいる。 そうしているうちに4灯全てのレッドシグナルが点灯し、わずかにタイミングをずらしてグリーンシグナルが点灯した。 グリーンシグナルが点灯したと同時にクラッチをつなぎ、ほんの僅かなホイルスピンをハンドルに感じた後、公人の操るクルマは猛然と加速を始めた。 トンネルセクション手前1コーナーに入る前には既に5台を抜き去っている。 トンネルセクション内で2台をパスした。 予選では暫定ながらトップタイムを叩き出したクルマである。後方グリッドのクルマとは明らかな速度差があった。 「このペースなら、あと数周程度でトップ集団に混じることが出来るかもしれないわね」 紐緒がいつもの計測ブースで、満足そうに独り言をもらした。 クルマが全て走り去ったホームストレートは加速で巻き上げられたホコリと奇妙な静寂に覆われていた。 コースの構造上ホームストレートはサーキットの中でも一番高い位置にあるために、トンネルセクションをクルマが過ぎるととたんに音が小さく聞こえてしまうらしい。 がやがやという観客席のざわめきがピットウォールにいる虹野達にも聞こえてくる。 何のトラブルも無ければ、1分弱後には再びホームストレートをクルマ達が駆け抜けて行くはずである。 「はぁ、なんかあっと言う間に行っちゃったね」 虹野が感慨深げに、傍らにいた秋穂に向かってそうつぶやいた。 「高見さんすごかったですね。目の前で2台パスしていきましたよ」 いくらクルマにパワーがあっても、スタート直後のポジション争いのさなかで抜きをかけるのは簡単な事ではない。 スタート直後はクルマが密集した状態の上、それぞれがベストなラインへ収まろうと動き回るために、その間を縫って走るのは想像以上に難しい仕事だ。 「そうね、これならこのレース優勝も夢じゃないかもね」 うれしそうにそう言ってクルマが通り過ぎ去った先を眺める虹野だった。 |