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第13話:クラブマンカップ 第2戦 Clubman Stage R5 予選。


 街に射し込む陽の光も既に紅く染まり始め、時折吹く風も涼しい秋の空気を運んでいる。
 少し気の早い街路樹はもう葉を紅く染めて、夕暮れ近い秋風に木の葉を舞わせていた。
 R5。市街地に作られた特設コースである。
 エスケープゾーン、サンドトラップなどがほとんど無く、コースの脇はほぼ全て堅いコンクリートの壁という、GTリーグで設定されるコースの中でも1、2を争うほどの高難度のコースである。
 クラブマンカップでは途中でショートカットされているが、やはり高難度のコースには違いない。
 しかもレースの開始が夜と言うこともあって、一層難しさに拍車をかけていた。
 ちなみに最も難度が高いコースとされているのがR11。同じく市街地コースである。

 クラブマンカップはサンデーカップと違い年に2回シリーズが行われる。
 1シリーズは全3戦。春と秋に行われる。
 夏、冬に行われないのは、単にイベントレースの大半が夏と冬に集中しているためにそちらの参戦を優先するチームが多く、エントリー台数が減ってしまうために結果として無くなってしまっただけである。
 今回公人の所属する紐緒率いるConquest Racingは秋のカップの第2戦目に、チームとしては初めてエントリーした。
 チームスタッフやピットクルー達も慣れないピットの中で少し落ちつかない様子である。
 公人はピットの脇のスペアタイヤの上に座って、紐緒に怒鳴られながらあたふたと動き回っているピットクルー達を暇そうに眺めている。
 彼もついさっきまではクルーと一緒に作業していたのだが、
 「ドライバーは運転して勝つのが仕事よ。他の作業はクルーに任せなさい」
 と気が立っている紐緒に怒鳴られ、隅の方で大人しくしていると言うわけだ。
 レースの本戦まではあと4時間ほど時間があるのだが、1時間後にレース前のフリー走行があり、2時間後には予選セッションがある。
 マシンの調整自体はサーキットに持ち込む前にほとんど終えてはいるのだが、その日の気温や湿度などでコンピュータのセッティングや油脂類の入れ替えなどを行っている他に、輸送時の衝撃などで各部が損傷していないかどうかを全てチェックしているので、それなりに忙しいのだ。
 今まで全て自分でやってきた公人にとっては、ちょっと居心地が悪い。
 「慣れてないって言ってしまえばそれまでだけどさ」
 溜息混じりにつぶやいてコースの方に目を向けた。
 コースのすぐ脇に高層ビルが林立している。
 時折窓ごしに人影が見えるが、もう慣れているのか関心がないのかコースの方を見ようとする者はほとんど居ない。
 「どうしたの?ボーっとして」
 放心気味の公人に声をかける者がいた。虹野だ。
 「フリー走行まであと1時間だよ。準備とかは大丈夫?」
 「んー、準備って言っても、もう着替えは済んでるし、さっき準備運動とか柔軟体操とかもしたし」
 「そう、緊張とかしてない? どこか具合が悪いとかはない?」
 「大丈夫だよ。そりゃレース前だしそれなり緊張はしてるけど、別にいつも通りだよ。虹野さんこそ、少し落ちついた方がいいって。さっきからなんだかずいぶんと落ちつき無く動き回ってるだろ」
 落ちつきがないどころか、今の虹野は地に足すらついていないような状態だ。
 公人の言うとおりさっきからピットの中を落ちつき無く歩き回っている。
 「そんな緊張しなくても、いつも通りにしてればいいんだよ」
 「う、うん、そうなんだけど。でもなんだかじっとしてられなくて」
 1時間ほど前までは主催者側とのミーティングや注意事項説明、各種書類の作成、提出などの仕事があって忙しそうにしていた虹野だったが、レース直前の今になってみるととたんに仕事が全然なくなってしまい、公人と同じく手持ちぶさたとなってしまっていた。
 「かと言ってみんな仕事してるのにお茶しに行くわけにもいかないしな。奥で虹野さんに用意して貰ったコースの資料見て作戦でも練ろうか」
 「あ、うん。でもわたしと作戦考えて、大丈夫?」
 「大丈夫ですよ。私も仲間に入れて貰いますから」
 横から声をかけてきたのは秋穂みのりだった。今日も髪をバッテンにした髪留めで留めている。
 本人曰く、『トレードマーク』だそうだ。
 「あ、一応紐緒さんにも言われてましたし、紐緒さん今手が離せないですから。私がその代わりって訳です」
 そう言いながら虹野と腕を組んでニコニコの秋穂。
 秋穂もこのチームに入る前はショップ系のレースチームに所属していて、2年ほどメカニックとしてレースの経験を積んでいる。
 メカニックとはいえ、コース図や実際にコース内を歩いたりしてポイントをついたマップを作るのが得意で、今日用意されたコース図も秋穂が実際にコースを歩いて作成したものである。
 オフィシャルから渡されるコース図よりも正確で情報も多くずっと使いやすい。
 虹野を先頭に、ピット奥に仮設されたテーブルへと向かった。
 いろいろと工具が並べられていたり作業中のクルーが動き回ってたりするのでさすがに2列になっては通れない。
 仕方なく秋穂も虹野の腕から離れて公人の前を歩いているのだが、ふいに秋穂の足が止まり、公人の方に振り向いた。
 公人を見る目がちょっと怖い。
 「? なに?」
 「あんまり虹野先輩とくっつかないで下さい。先輩すごく純真なんですから」
 「は?」
 「とにかく、そう言うことです。私が認めた人以外先輩の…」
 秋穂がそこまで言いかけたところで、先にテーブルに到着した虹野が途中で立ち止まっている2人を見つけて
 「どうしたの? 早く始めましょ」
 と呼んだので、会話はそれっきりとなり、結局秋穂が言いかけた続きを公人は聞く事が出来なかった。

 「じゃあいいですか、コースの詳しい説明をします」
 秋穂が虹野の横で、A2の紙にサインペンの手書きで書かれたコース図をテーブル中央に広げて、説明を始めた。
 「高見さんも虹野先輩からコース図を貰って一応目を通しているとは思いますので、それを前提に説明しますね」
 「ああ、よろしく」
 「この後のフリー走行で再度確認していただきたいんですが、まずピットレーン出口からトンネルまでは……」
 さすがにコース図作りが得意と言うことだけに、説明もきわめて正確でわかりやすいモノだった。
 路面の繋ぎ、パイロンの位置、勾配の角度、コーナーの細かな曲率などなど、かなりドライバー視点に立っている説明は公人をしても感心するものだった。これで運転技術があればかなり手強いドライバーになれるはずである。
 「いやすごい。改めて秋穂を見直したよ。ヘタにこのコースを走ったことのあるヤツに聞くより全然わかりやすいんじゃないかな」
 「えへへ、それほどのことでもありますよ。前にいたところでもよくやっていましたし、レッキとかもよくつけてましたしね」
 「レッキ? 前いたところってラリー屋?」
 「似たようなところでした。正確にはラリーもやっていた、って感じです。こう見えてもコ・ドライバーもやったことあるんですよ」
 「だろうな。あの説明の仕方の感じだと、横に秋穂乗せて運転席側のフロントウインドウを目隠ししても走れそうだったもんな」
 「えー? そんなことして危なくないの?」
 公人の言葉に虹野が驚きの声を上げる。
 「いや、そりゃレースになればそんな真似は出来ないよ。危なくて。1台だけフリーの状態で走ったときにそうやっても走れそうだってこと。サーキットは歩行者とか交差点とかないからね」
 それでも正確な運転技術あってのことだ。
 「ふうん、そうなんだ」
 一瞬だけ虹野の表情が翳ったが、すぐにいつもの元気な虹野の顔に戻ったので公人も秋穂もそれ気がつかなかった。  「どう高見くん、今日はどこまで行けそう?」
 「走って見ないとなんとも…。なんせ古式さんとこも今回からエントリーだろ? そう思うとかなり苦戦はしそうかな」
 「そうですか。でも予選で前のポジション取ってしまえばこっちのもんですよ」
 「かもね」
 公人は言いながら頭の後ろで手を組んで、背もたれにもたれかかった。
 「うん、わたしなんにもしてあげられないけど、一生懸命応援するから。がんばってね」
 少しだけ寂しそうな表情で虹野が言った。
 彼女だってマネージャーという立場からレース外で仕事をいくつもこなしているのだが、やはり直接的な仕事ではないだけに、公人に対して何もしてあげられないという焦れったさを感じている。
 「ああ、下手なレースすると紐緒さんが怖いしね」
 「あたりまえです。ただ走るためにクルマを作ってるわけじゃないんですから」
 むすっと不機嫌な顔で応える秋穂だった。
 ちょうどそのころ、クルマのチェックも終わり、いよいよエンジンに火を入れるためにピット前にクルマが運び出されようとしていた。

 「フュエルポンプ動作確認。規定圧に達しています」
 「バッテリー規定電圧。高圧コイル全て正常」
 「電気系統全て異常なし」
 「エンジン始動します」
 最終確認が全て口頭で告げられ、ピット前でシビックタイプR(紐緒スペシャル)のエンジンは轟音と共に始動した。
 始動時に一瞬マフラから炎が見えたが、これは先ほどのチェックで排気管に若干の気化したガソリンが流れ込んだ為で、特に問題はなかった。
 「アイドリング正常」
 「吸気流量問題なし」
 「排気温、排気圧、他全て正常」
 「水温安定、イケます」
 「回転を上げて再度チェックよ。レブリミットまで上げて燃調を確認してみて」
 紐緒の指示の後に排気音の音が一気に高くなる。
 急激に回転が上がったためだ。
 「…すごい勢いで回転があがったな」
 それを聞いて公人がピット奥のテーブルでつぶやいた。
 「紐緒さん、昨日も遅くまでコンピュータのプログラムいじってましたからね」
 うなずきながら秋穂が答える。
 マフラから流れるエグゾーストサウンドは、うるさくはあるが澄んだ音を響かせている。
 一風変わった金管楽器のような音色はエンジンの回転数に合わせて音階を刻んでいた。
 ギヤニュートラル、無負荷の状態でアイドリング回転からレッドゾーンの9000回転まで僅かに0.5秒。
 モーターのように回転が鋭く立ち上がる。
 クランク軸のフリクションを徹底的に減らし、各気筒のピストンピン1本に至るまで全ての気筒の重量配分を見直すなど、エンジン単体から吸気系から排気系から、およそ紐緒の考えつく部分全てに渡り最適化させた結果だ。
 もちろん徹底的に手を加えた部分はエンジンだけではない。
 エンジンルームの横で紐緒はなんの抵抗もなく軽やかに吹け上がるエンジンを満足そうな顔で眺め、そして公人達の方に足を踏み出した。
 「どうかしら、高見君。3日前よりもレブリミット到達時間が半分になったわよ」
 いつもは無表情に言う紐緒だが、今の紐緒には口元に笑みが浮かんでいる。
 「みたいだな。ここで聞いていてもエンジンが別物みたいだよ」
 「足周りもさらに煮詰めてあるわ。先週テストしたクルマとはすでに別物と言ってもいいわね」
 「それじゃ今日のクルマって高見くん初めてってことになるの?」
 虹野がちょっと驚いた口調で口を出した。
 「ん…と、まーそう言うことになるな」
 別段驚く様子もなく公人が呑気に答えた。
 「大丈夫なの?」
 「多分ね。紐緒さんのチューニングのクセは大体判ってるし、フリー走行で合わせていけば大丈夫だと思う」
 「クセ? それはクセとは言わずに、私のチューニング方針って言ったところね」
 「まーそうも言うかもね」
 「それより高見くん、もうフリー走行10分前だよ。乗り込んで準備したほうがいいんじゃない?」
 公人の答え方にちょっと不満顔の紐緒だったが、虹野が公人に準備を促すとそのままきびすを返してクルマの方に戻っていった。

 フリー走行開始10分前。
 まだ夕暮れにはちょっと早い時間だが、コースに沿って設置された街路灯に灯が点され始めた。
 チカチカと数回点滅した後、ゆっくりと青白い光を放ち、明るさを増して行く。
 ピットロードには既にほとんどの出場車両がエンジンをかけて準備をしている。
 公人もクルマの屋根にヘルメットを置き、運転席のドアを開けたままグローブをはめている。
 何の気なしに周囲のクルマを眺めると、5台ほど後ろに見慣れたカラーリングのクルマがあった。
 「チームゆかり」のクルマだ。
 今回からシビックではなくインテグラを投入している。良くは見えないがおそらくTypeRだろう。
 運転席に古式の姿はまだなかった。
 「公人クン」
 不意に公人の後ろで声がした。
 「あれ? 詩織?」
 ちょっと驚く公人。
 「久しぶりね。メグからクラブマンカップに公人クンが出場するって聞いたから、またお手伝いに来たの」
 微笑みながら詩織はそう説明する。
 詩織と公人が会うのは2ヶ月ぶりだろうか。
 前回の公人の事故以来、自宅の周りでも顔を合わせることはなかった。
 詩織は事故の怪我を気遣って何度か公人の家を訪れたのだが、いつも留守で結局全て無駄足に終わっている。
 「へぇ、今度はチームでの出場なんだ。一言くらい教えてくれても良かったのに」
 「ごめん。ここしばらくずっと忙しくて」
 「この間の事故の怪我とかはないの? 後遺症とか」
 「ああ、大丈夫。当たり方が良かったからどこもなんともないよ。一応病院行って調べてきたから。大丈夫」
 「そう、良かった。心配してたんだから」
 「ごめん」
 「ふふ、いいわよ。なんともないんだったら。じゃ私はまだこの後仕事があるから、また後でね。頑張って」
 「サンキュ。…ああ、そうだ」
 立ち去ろうとした詩織の背中に公人が声をかけた。
 「なあに?」
 振り返ってちょっと大きめな声で返事をする。少し距離が離れたのとピットロードがレースカーから発せられる爆音に包まれつつあったためだ。
 「今日はやらないの? レースクイーン」
 それを聞いてみるみる詩織の顔が赤くなった。
 小走りで駆け寄り、公人の耳をつかんで小声で返事をした。
 「…今日はその…やっぱり人がいなくて…それで…」
 赤い顔をさらに耳まで赤くしてうつむいた。
 「…そんな恥ずかしいならやらなけりゃいいじゃない」
 「うん…でももう引き受けちゃったから…けど知らない人にジロジロ見られるのかと思ったら、やっぱり恥ずかしくて」
 「わかったわかった。予選でオレが1番取るから。そしたら少なくとも知らないやつに一番近くでジロジロ見られることはなくなるだろ」
 「…うん。約束よ。公人クンだったらまだ我慢出来ると思う。じゃぁ期待してるから」
 相変わらず顔は赤かったが、少し明るい笑顔も覗かせながらそう言うと、詩織は小走りで事務局の方へと戻って行った。

 ふう、と公人も一息ついて、ルーフに乗せてあったヘルメットをかぶった。
 フェイスマスクは嫌いなのでつけてはいない。
 「高見さん高見さん、今の人誰なんですか? オフィシャルの上着きてましたけど」
 今の詩織と公人のやり取りを見ていたのか、ピット奥から秋穂が飛んできて興味深げに尋ねてきた。
 「ああ、隣の家に住んでる藤崎って言うんだ。会うのも久しぶりだから顔見せにきたんだと」
 ヘルメット越しにそう答える。
 ヘルメットのカラーリングは以前まで使っていたモノと同じだが、型が少し違うのでなんとなくだが違和感を感じているようだ。
 以前のものと全く違う部分として、ラジオ(無線)用のコードとドリンク用のチューブがヘルメットから伸びていた。
 ちょっと煩わしそうにしているが、乗って運転してしまえば気にならないはずである。
 「へぇ、そうなんですか」
 公人の答えにちょっと首を傾げながら、秋穂は納得のいかない顔をしていた。
 「なに?」
 「いえ…彼女なんですか?」
 それを聞いて開いたドアにもたれ掛かるように脱力する公人。
 「ただの幼なじみだよ」
 「あ、そうなんですか」
 「そう、だからあることないこと言いふらすなよ」
 クルマに乗り込み、バムッと音を立ててドアを閉めた。ボディサイドにもロールケージが張り巡らされているので、ドアの剛性はそれほど無くても良さそうだが、それでも建て付けをしっかりとさせておくところはいかにも紐緒らしい。
 「言いませんよ、そんなこと」
 秋穂はちょっとムスッとした表情でそっぽを向いた。
 「冗談だよ。それじゃそろそろフリー走行始まるから、ピットロードから離れてたほうがいいぞ」
 笑いながらそう言い、幅3インチの赤い6点式シートベルトを締める。
 見た目はF1などで使われているものとほとんど同じだ。
 シートベルトは事故時に身体を固定するだけではなく、コーナリングやブレーキングの時でも身体をシートと共に支えてくれる役割も持っている。
 それだけに、きちんと締め込んだ状態だとほとんど身動きがとれなくなってしまうほどだ。
 ヘルメットから伸びるコードなどをコンソールに差し込むと、フリー走行開始の合図がピットロード出口で出された。
 軽くアクセルを開ける。それだけでレブカウンタの針はあっと言う間にメータの中程まで跳ね上がるように回って行く。
 「マジで3日前よりとんでもなくなってるよな、これ」
 背中に冷たい汗が一筋流れた気がした公人だった。
   


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