またまた思い出です。
私が通ったのは夏目漱石の小説にも出てくる飯田橋の学校です。
その学校の伝統ある夜学部に私は進学しました。
夜学にした理由は学費が安かったのと、比較的試験が易しかったからです。補欠だけど合格通知をくれました。私は成績がよくなかったのです。本当は神田の電機大の電子工学科に行きたかったのです。でも、受験日に道に迷うというおおぼけをかましてしまったので受験できなかったのです。
何とか入学させてもらったので、晴れの入学式はフーテンの寅さんみたいな変な柄のブレザーを着て行きました。
それは、お袋様が東京のガッコさ行くんだからと言って近所の「プラザ」という店で買ってくれたものです。当時のおふくろ様(41歳)のセンスは、決して悪くはなかったのです。
でも、残念ながら私と薄暗い理科大のキャンパスには似合わなかったのです。
これが早稲田大学なら似合ったかも?と思います。
なぜかというと、早稲田大学の門の前でそういうブレザーを着ている学生を見たからです。
高校時代は黒の学ランと、家ではジーパンしか着たことが無かったのでファッション感覚など無いに等しかったのです。でも、後になってジーパンで良かったんだと気づきました。
なので、それからは、当時は吾妻ひでお氏の漫画の「5人と一匹」に出てくる「先輩」にあこがれていたので、すぐにベルボトムのジーパンに高校時代の黒い学生用コートで煙草をくわえながら夜学に通うようになりました。
それで、ベルボトムのジーパンというだけで笑っちゃいますが、さらに、太宰治とか坂口安吾とかの文庫本をバックに入れていました。
でも、タバコは「セブンスター」なのでいまいちだったのです。
渋めの人は「チェリー」か「ハイライト」でした。
でも、私には合わなかったのです。アルバイトに来ていた仲間(専修大)が「若葉」を吸っていて渋いと思いました。
若葉かよ!やられたな…と思いました。バットを吸っているやつもいたが、そいつは変人でした。フランス語の専門学校に言っているやつはハイライト派でした。そいつは横顔が沢田研二に似ていて、妙にハイライトをくわえた姿が格好良かったです。
なお、ピー缶を持っている奴もいて、そいつがジョンレノンに似ていて格好良かったのですが自分には両切りが上手くすえないのであきらめました。
当時チルチルミチルとかいう100円ライターが出始めのころでした。
でも、私は妙にマッチにこだわっていて、いつも5円のマッチを2つ買ってポケットに入れていました。
なお、当時の100円ライターはまだ品質が安定していなくて、学食のところで100円ライターをカチカチやっていたやつがいきなりボーと出た炎で前髪を焼いていたのを思い出します。
バイトを終えてから学校に行きました。神楽坂のパチンコ屋(花屋)の脇の細い路地を通って学校に行くと、まず学食に行きました。
私の夕食は150円の味噌汁つきカレーライスかコロッケラーメンが定番でした。
定食は300円なので贅沢だったのです。
飯を食って、煙草をすいながら学食のテレビで「太陽にほえろ」の再放送を見てから講義に出ました。
素粒子論が専門の宮崎先生の力学の講義は教科書として山内恭彦先生の「一般力学」を指定されました。その本は名著といわれますが、難しくてサッパリ判りませんでした。
試験には「回転する座標系がどーのこーの」という問題が出ました。何とか「良」をもらったが、たいていのやつは単位を落としたので、がんばったほうなのでしょう。
小平先生の物理数学はまったく判りませんでした。あの境界問題って何だったのだろう?いまだに何を勉強したのか判らないです。
高橋先生の量子力学も判りませんでしたが、答案用紙に俳句を書いて提出したら「良」をくれました。もっとも、演習の時間に誰も出来ない積分方程式の問題を解いたという実績があったわけですが…深夜に必死で解いた甲斐があるというものです。
統計力学は皆目判りませんでした。量子統計というのを講義されたような気がしますが、なんというか、世の中にはまったく理解できないことがあるとはじめて知りました。
それと、もうお亡くなりになったがショパン研究家の野村先生の音楽の授業はレコード鑑賞なので教室の後ろにもぐりこんで聞いていました。あれでショパンが好きになったのかな?そこは200人は入る階段教室で、理科大のマス教育のシンボル的な教室でした。
なお、機会があれば昼間部に編入しようと思っていましたが夜間のまま卒業してしまいました。昼間部に行くと卒研は東大とか早稲田とか慶応とかに行ったらしいです。今となっては夢の中の夢です。
うす汚い実験室が懐かしいです。
|