釣りキチあかね
「来週の日曜日さ、山のほうに行こうと思うんだけど」 「うん、もちろん行くよ。楽しみだなぁ、ボク」 いつものデートの約束の電話だった。 山の上にある湖に行く。そんなささやかなデートのはずだった。 「公一くん、こっちだよー」 「あれ? 早いな、あかね」 待ち合わせの駅に向かうと、改札口のそばであかねが手を振っているのが見 えた。 遅れたかと思って時計を見ると、まだ待ち合わせ時間には10分ほど余裕があ る。 あかねは人ごみの向こうから、少し頬を赤らめた笑顔で手を振りつづけてい た。 先週電話してから1週間。待ちに待った日曜日だ。 天気も雲一つ無い晴天。気温も暑すぎず寒すぎず。 僕は胸が高鳴るのを感じながら、彼女のもとに小走りで駆け付けた。 「おはよう、公一くん」 「おはよ、あかね」 「ボク、今日すっごく楽しみにしてたんだよ」 あかねはうれしそうに右手を持ち上げて、胸の前で小さくガッツポーズを取 った。 僕はその時初めて、彼女の左手に握られているものに気が付いた。 「…その、手に持ってるの、なに?」 聞かなくても見ればわかる。でも、僕は聞いてみたかった。 「ハンマーだよ」 彼女が手にしているのは、間違い無くハンマーだった。 柄の長さは約1m。その先にはビア樽のような形の金属の鎚がついている。 「…なにに使うの?」 「それは、行ってからのお楽しみだよ」 楽しそうに笑った。 限りなく不安な気がしたが、気にしないことにした。 それ以前に、こんなもの持って電車に乗れるんだろうか。 「んー、空気がおいしいねぇー、公一くん」 「…乗れるもんなんだな…」 「ん? なにか言った?」 「いや、なんでもない」 電車に乗って小一時間ほどで、山の駅に到着した。 駅から湖までは歩いて10分ほどで着く。道は整備されていてハイヒールでも 歩いて行けるような道だ。 「じゃあ行こうか」 「うん」 5分後。僕たちは湖への道ではなく、8割ほど獣道な道を歩いていた。 下草に足を取られて歩きにくいことこの上ない。 そんな道だというのに、あかねは平気な顔をして歩いていた。 「ねぇ、あかね、これどこ行く道?」 「湖に流れ込む川に出るんだよ」 「湖には行かないのか?」 「行くけど、先にこっちに行きたいんだ」 行く手を邪魔する木の枝を払いながら歩く。 「その川にはなにかあるのか?」 「公一くん、ガチンコ漁って知ってる?」 「ガチ…なに?」 「ボク、思ったんだ。餌釣りもルアー釣りも、結局サカナをだましてるんじゃ ないかって。だからボク、身体でぶつかることにしたんだよ」 いや、したんだよ、って言われても…。 っていうか、それはもう釣りじゃないし。 「その川は遠いの?」 「遠くないよ。さっきの道からだと10分くらいのはずだよ」 まぁそのくらいの距離なら問題無いだろう。 僕たちは、下草をかき分けながら、目的地に向かって歩いて行った。 ガチーーンン…… 「うわー、見てみて、サカナがいっぱい浮いてきたよっ」 あかねのうれしそうな声が聞こえる。 空を見上げると、初夏の澄んだ青空に、ワタアメのような白い雲がぽつぽつ と浮いていた。 川面に目を移すと、20cmくらいのサカナがたくさん、白い腹を上に向けて浮 いていた。 よく判らないが、ヤマメとかニジマスといった類だろう。 ガチイーーンッ 「あは、今日は大漁だよ」 あれから2時間。僕たちはようやく川辺に辿り付いたけど、そこはあかねも 知らない川だった。 道に迷っていたのだ。 最初のうちはあかねも不安がっていたが、持ち前のポジティブな性格により、 今はあの通り元気に岩をハンマーで叩きまわっている。 僕は緩やかに流れる清流にヒザ下まで浸しながら、なにが間違っていたのだ ろうと、何度も何度も繰り返し考え続けた。 2日後。 偶然近くを通りかかった華澄先生に発見されて、ようやく家に帰ることが出 来た。 2日間、ガチンコ漁で獲った魚と川の水で半サバイバル生活だった。 あかねが火を起こす道具や魚を捌く道具を持っていたので、生魚を食べる事 だけは避けられたのが幸いだった。 なんでそんな道具を持っていたか、なんて考える精神的余裕すら無かったの も幸いだった。 「公一君、また行こうね」 あかねは少し疲れた笑いを見せながら、そう言ってくれた。 「今度はハンマー2本持っていくから」 薄れ行く意識の中、あかねの声が遠くに遠くに聞こえていた…。 終い。