出発
1996年5月28日(火曜日)
メルボルン行きのフライトは午後6時発。いつもながら飛行場には車で妻に送ってもらった。
いつもながらのことだが、出張の準備は出発間際までなかなか出来ない。昼飯を食べるのもそこそこに、妻が用意した衣服、メルボルンに住んでいる息子への日本食を詰め込んだ。日本食が結構重いかなと思ったが大したことはなく重量超過の料金を取られずに済んだ。
成田―香港―メルボルン
今この文は成田空港の出発ロビーで書いている。昨日買ったNECのモーバイルギアと言う端末の使い初めだ。 キーボードは幾分小さくちょっとやりにくい。でも東芝のリブレットのキーボードよりは大きくまだましだと思う。とにかく、モデム内蔵で通信が出来るしファックスの送信もできるというのがいい。これまでこの値段でこれだけの機能を持った端末は無かったのではないかと思う。ザウルスなどはキーボード入力が出来なかったはずだし、まあ今のところはまずまずと思っている次第。
今回のフライトはキャセイだが、割安チケットでメルボルン往復8万6千円だ。チケットの引き渡しは空港の団体のカウンターで扱いはツアー扱いと言うことのようだ。これで座席が混んでいなければよいのだがさてどうなるか。今回キャセイを使うので香港経由となる。帰途は香港に2泊して仕事上の相手にも会う予定だが往路は香港はの入り継だけである。香港には20時半に到着した。ここには何年ぶりだろうか。私にとって初めて来た外国が香港であった。27年前中国の広州交易会に参加するときに立ち寄ったのが最初だったがそれ以来何回も来ている。香港に来るといつもそうなのだが独特のにおいがする感じである。出発までは1時間以上あるので出発ロビーで待つ。
香港の飛行場は長いこと昔のままだ。東南アジアの国は近年多くが空港のターミナルビルを改築や新築している。シンガポール、ジャカルタ、バンコックなど経済の成長に伴ってターミナルビルを新改築しているが香港は久しく同じビルである。でも、香港も別の島に新空港を建設する計画が有って、もう着工しているのかな。
香港からアデレードまでは夜行便となった。メルボルンに行くのにはアデレード経由となる。数年前にシンガポール航空を使ってシンガポールからメルボルンに入ったときもアデレード経由だった。いずれにせよ成田からメルボルンは直行便が無く、JALやカンタスでもシドニー経由となる。大阪からはメルに直行便が有ったかな。アデレードで1時間あまりの乗り継ぎ時間を経てメルボルンに着いたのは11時半であった。
メルボルン到着
空港で日本で予約して置いたレンタカーを借り市内に向かった。メルボルンは92年まで駐在していた懐かしい場所である。その後日本に帰ってからも毎年出張でこちらに来ていたが、タラマリン空港から市内に向かうフリーウェイを走ると懐かしい我が町に帰ってきたという感じである。駐在時代よく国内出張をしてメルボルンに帰ると「家」に帰ったという感じがしたが今度もそんな感じがする。
ジャム工場訪問
メルボルン滞在中の宿は息子のアパートだが訪問先とのアポイントの関係上直接その会社に行く。途中、車の中でラフな格好からワイシャツ、ネクタイ背広に着替えて訪問した。このCherry Berryというジャムの会社の社長には昔駐在時代に事務所で会ったことが有る。その頃は工場がバララットというメルボルンから100km位離れた地方にあったが、今はメルボルン郊外に越してきている。営業は奥さんが勤めていて輸出業務はもう1人若い女性がヘルプするという体制である。我にはその3人が応対してくれた。ジャムは手作り的な高級路線を志向しておりホテルや土産物、通信販売などがねらい所かなという感じ。 ジャム以外にもシュガーレスのキャンディーを作っていた。Cherry Berryを出て帰り道でChadstonという場所のショッピング・センターに寄った。このショッピングセンターはメルボルンでも大きい方だが久しぶりに立ち寄るとかなり改装されてきれいになっていた。百貨店、いくつかのスーパー、専門店、映画館などで構成されている大きなもので一度に全部見て回り切れないくらいだ。
長男のこと
長男は高校卒業してからこちらに来ている。語学学校からこちらの大学へ進み、今年いっぱいで大学を卒業である。最初の2年ほどは私がこちらに駐在していたので、一緒に住んでいたが、私が帰国してからはこちらで一人で住んでいる。メルボルンには小学校の低学年の時に、私の最初のメルボルン駐在でこちらで住んだことがあり、こちらで生活するのは今度で2度目だが、こちらがすっかり気に入って、卒業後もこちらで仕事につきたいと言っている。外国人の就業ビザは簡単にとれないのでどうなることか。いずれにせよ、今年中にどうなるか決まるだろう。
息子のアパートはToorak通りというメルボルンでもハイセンスな流行の先端を行くファッションなどの売る店が多い通りに面している。場所の割には安いアパートを借りている。家具は付いていないが1ヶ月の家賃は日本円換算で約4万円。日本風に言うと1LDKという感じだがベッドルームもリビングルームもかなり広い。この広さなら日本ではベッドルームを2室は十分取れる広さである。日本と比べて食費などの物価も安いので日本で子供が東京でアパート住まいで大学に行くより費用的には安くあがる。
日本料理・日本食材
夕食は息子と息子の大学の友人と3人で近くの日本料理屋でとった。日本料理屋といってもお客は殆どオーストラリア人である。今日は金曜日故特に客が多く殆どフルハウスの状態であった。オーストラリア人でも寿司や刺身を箸を上手に使って食べている。メルボルンは最初に来たのが第1度目の駐在で1979年。その当時は日本料理屋も少なく数軒しかなかった。今は何軒あるだろうか。数え切れないくらいだし、こんな所にというような郊外にもぽつんと日本料理店があったりするので日本人には便利になった。
日本食の食材も豊富になったし、日本人経営の鮮魚を扱う魚屋が出来たのもうれしい。そこでは刺身用の切り身は売っているしマグロ以外にいろんな白身の魚やロブスターやアワビが手にはいるのもありがたい。昔はこんな店は無かったから、ビクトリア・マーケットという鮮魚が入手できるマーケットで丸ごとの魚を買って来てそれを三枚に下ろして刺身を作ったものだ。お陰でスナッパーは鯛とかイエローテイルはブリとかトラバリはシマアジ、フラットヘッドフィシュはコチ、ガーフィッシュはサヨリなど魚の英語の読み方を覚えたものだ。
昔は日本料理屋もそんなに多くなかったので、日本からお客さんが来ると自宅に呼んで伊勢エビやタイなどを自分で刺身に造って食べていただいたものだ。麺類も小麦粉を買って自分で手打ちうどんを作ったり、冷や麦の代わりにスパゲッティーの極細のもの(これは限られたメーカーしか作っていなくて何処でも購入できるというものではなかったが)を使ったりした。今でもそうだろうが、こちらで生活していると、自宅に客を呼ぶことが多く、奥さんたちは料理の腕が上がるようだ。
レンタカー
オーストラリアで移動する場合、メルボルン、シドニー、ブリスベーンなどの都市部だけに用があるならタクシーの利用で十分用が足りる。しかしながら郊外の工場を訪問したり、地方にちょっと足を延ばす必要が有る場合はレンタカーが不可欠になる。オーストラリアは日本と同じ右ハンドルで道路交通法も日本と殆ど同じ故現地での運転は全く問題ない。日本より道路が広く渋滞も少ないので日本よりずっと運転しやすいといえるだろう。今回の出張ではメルボルン、ブリスベーンそれぞれの空港で到着と同時にレンタカーを借り、空港に返すというやり方だった。シドニーではタクシーとレンタカーの併用で、レンタカーはホテル近くのレンタカーデポで借りて遠出の時にレンタカーを借りた。殆どのレンタカーが立派な詳しい道路地図を用意してくれるし、道路の名前や番号がわかりやすく初めての場所でも非常に走りやすい。
オーストラリアでの訪問先
タスマニア・シーフード社
この会社は前職時代に取引のあった先。本社はタスマニアにあり過去何回も行ったことがあるのだが、メルボルン郊外にある活き鮑の輸出デポは最近ものので行ったことがなかった。社長のハンセン氏はアメリカ人だが戦後オーストラリアにきてタスマニアが気に入り鮑のダイバーをやりその後冷凍鮑、缶詰鮑の輸出を行い、今ではオーストラリア最大の鮑輸出業者になっている。活き鮑の輸出はアメリカに住んでいた娘を責任者に据えて最近始めたもの。今後のワークのためにパッキング、タンクなどを見ておいた。
バランタイン社
缶入りバター、チョコレート、などのメーカーで、最近脱脂粉乳の調整品も輸出している同社を訪問した。輸出担当のジュリー・ハンロンは元日本のオーストレイドに勤務していた。当時1度合ったことがあるが日本の上智大学をでて日本語はペラペラ、温泉やスキーの好きな女性である。ミックスの工場はファントリーガレーというメルボルン郊外に新たに建設中とのことで今回工場見学はできなかった。
ジェフリー・ビー・プロモーション社
社長のジェフ・ベイツ氏とは10数年来の知り合い。ポプリやギフトアイテムを扱っている。ポプリの素材などは、オーストラリアからのみならず同社の仕入れルートを通じてインド・パキスタンなど他の国からも買い付けが可能である。
アジア・パシフィック・ブレンディング社
脱脂粉乳の調整品の供給業者。工場はメルボルン郊外に有るが、現在新工場を建設中。今年中には完成予定の由。この会社は今回初めて訪問したが、社長は技術者でもとキャドバリーなど大手菓子メーカーやビクトリア州の乳業関連政府機関の技術部長などを経て1988年に今の会社を創業した。良く知られたフレーバーミルクの下請けパッキングなども行っており、まず信頼の置ける会社と見受けられた。
アグリフード・マーケティング社
この会社は乳製品の輸出をやっている貿易会社。社長以下全部で3人の所帯だが、小回りが利きいろんな情報をとるには便利な相手である。乳製品の場合日本はまだ輸入規制で調整品くらいしか輸入できないが将来の為にも長期的につきあいを続けて行く積もりである。
ピュア・ハーベスト社
オーガニック食品や自然食品を専門に扱っている会社。自社ブランドは持っているが、自社生産はしていない。小さな倉庫を配送センターにして自然食品専門店やスーパーマーケットに卸している。今回初めての訪問であったが、規模的にも、内容的にも今一つもの足りない感じであった。
ディファイアンス社
オーストラリアで3番目に大きい製粉会社。小麦粉の調整品を日本に輸出しており、今回のオーストラリア滞在中にブリスベーンの輸出営業部門、シドニー及びメルボルンの各工場を訪問した。小麦粉の調整品とは小麦粉に砂糖や澱粉、或いは脱脂粉乳などを混ぜたもので、小麦粉だけでは日本に輸入する場合小麦粉の値段の倍くらいの税金を払わないと輸入できないがほかの原料を混ぜることで、10数パーセントから20数パーセントの輸入税で輸入できるものである。小麦粉の輸入が実質禁止状態になっているのでこういう調整品の形でかなりの量の小麦粉が輸入されている。
P&0フーズ社
ブリスベーン郊外に有るこの会社は、ケイターリングや外食の会社に冷凍食品や冷凍のソースやスープを供給している会社。親会社は海運の多国籍企業で有名なP&O社である。ISO9001の認証を得ているとのことで設備もまずまずだが、日本向けの調理食品の冷凍品については、HACCPなどの更なる衛生管理が要求されると思う。それと日本に適した風味や味をいかにして出せるかもポイントと思う。
マカデミア・プランテーション・オブ・オーストラリア社
場所はニューサウスウェールズ州の北東部、クイーンズランド州との州境に近いところ。現在の生産量は殻付きベースで18,000トン(殻無しでは5,500トン)くらいとのこと。最近中国からの需要拡大などもあり、供給はタイトだがすでに植えられた若木もかなりあり将来は供給量はかなり増えるよし。副産物のマカデミアナッツ・オイルも供給可能。風味も良く値段的にもそんなに高いわけでなく売方次第ではおもしろいと思った。
マリアニミート社
場所はマカデミアの会社からほど遠くないところにある。日本向けにはマリアニブランドの小売りパックのもの以外に大手某珍味メーカーにバラでも出しているよし。日本でのシェアは米国産が35%、ついで値段の安い南米産が30%、中国産が15%、オーストラリア産は10%強とのこと。品質的には悪くなく、後は価格的にいかに他国産と競争できるかと言うことと思う。
ウィロウ・バレー社
シリアル製品やスナック製品のメーカー。場所はシドニーから南に100キロ位のところに有る。マカデミアノ会社と同じ企業グループに属している。
オーストラリアン・コーポラティブ・フーズ社
ニューサウスウェールズ州最大の乳業会社。オーストラリアの乳業製品はビクトリア州の方が生産量が大きいがビクトリア州は季節により生産量のふれが大きく、余剰ミルクから生産する脱脂粉乳やバターなど原料の生産量が多い。ニューサウスウェールズ州の場合は季節による生産のふれはそれほど無く生産品目も市乳、ヨーグルト、アイスクリーム、チーズなどの市販製品が多い。前職時代に親しくしていた事もあり、本社に表敬訪問した。
マニルドラ社
小麦粉澱粉やグルテン、ブドウ糖など甘味料の大手メーカー。これも前職時代の関係で表敬訪問。
IEC (Australia) Pty Ltd
この会社は航空貨物のフォワーダーで日本の会社の現地法人。メルボルンに駐在していた頃に取引があった会社。現地法人シドニー本社ののK社長、メルボルン店のT所長ともにまだ30代の若さだが、非常に仕事が出来て業績を拡大している。T所長は初めてメルボルンに赴任したときは26歳であったが、馬力もあり、オーストラリア人のなかに混じって朝早くから夜遅くまでがんばっていた。当時、若い人たちを海外の責任有る立場に送り込むこの会社の方針にも感心したものだった。
オーストレイド・メルボルン事務所
オーストレイドとは日本のジェトロに相当する機関。小生が以前駐在していたときは、ワールドトレードセンタービルの中に有ったが、今はメルボルンコンサートホールの近くのきれいなビルに移っていた。小さな規模の会社が新たに海外に輸出を始めようとするときには色んなヘルプも得られて便利なようだが、有る程度の規模と輸出経験が有る会社には物足りないようである。
日商岩井豪州会社・メルボルン店
前職時代に2回通算6年あまりを勤務したところである。事務所の場所もずっと変わっていないし、昔いたスタッフまだ何人かいる懐かしい場所である。小生の後任のK氏もまだ駐在中である。同氏と各種の情報交換を行った。
帰途、香港・深センに立ち寄る
息子のアパートに泊まり、ブリスベーン、ゴールドコースト、シドニーなどにも出かけ18日間オーストラリアに滞在した。独立後の間もない時期故長期間滞在できたが、アデレードとかミルジュラなど行きたかったが行けなかったところも有った。次の機会に譲ろう。帰途香港経由で帰るか、それともかつて3年半ほど駐在したシンガポール経由で帰ろうかと迷ったが結局中国返還を一年後に控えた香港に立ち寄ることにした。6月16日の昼頃のメルボルン発のキャセイの便で香港に着いたのは夜になっていた。宿は日商岩井の香港店の駐在員に予約してもらった九竜サイドのネイザンロード、ペニンシュラホテル近くのホテルに泊まった。部屋にはファックス機器、インターネットがつながる端末があるなどビジネス客には便利なホテルだった。海外旅行の初めての場所も香港であった。1969年のことだから27年も前のことである。当時と比べると香港も新しい建物が多くなり生活水準も向上、ずいぶん変わっている。
良く7日にはKowloon駅から電車で国境のLuowoo(羅湖)迄ゆき国境を渡りShenzhen (深セン)に入った。Shenzhen(深セン)は中国の一部とはいえ簡単な手続きで入境出来るし、香港ドルは使えるし、人々の服装や建物も香港の一部のような感じである。昼食を駅の前のシャングリラホテルの日本料理屋で稲庭うどんを食べた。隣の席でで中国人のカップルが一人は鰻重を一人は寿司を食べていた。深センに来た目的は最近中国人の友人が深セン中心部から刳るまで40分くらいのところにある蛇口という場所で日本食品の輸入販売会社を設立したので、お祝いと激励を兼ねて訪問する為であった。会社の案内や説明を聞き、自宅に招かれ夕食をごちそうになった。香港のホテルに帰ったのは夜11時近くになっていた。18日の朝日商岩井・香港店を訪問、11時にホテルをチェックアウトし、昼過ぎのキャセイの便で帰途についた。夕方、3週間ぶりで成田に戻ってきた。(完)